第18回 張作霖爆殺事件と田中義一内閣

 昭和という時代は、「激動の昭和」とか「動乱の昭和」――こう言われているように、敗戦までまさに戦争と動乱に明け暮れした二十年でしたが、その発火点となったのが、これからお話する張作霧爆殺事件です。昭和三年六月、満州軍閥の首領張作霖の乗った列車が奉天、現在の潜陽で爆破され死亡した事件ですが、時の内閣は長州出身の陸軍大将、政友会の田中義一内閣でした。誰がやったのか。日本国内でも「満州某重大事件」として大きな政治問題になり、田中内閣は総辞職に追い込まれましたが、国民の前に真相が明らかにされたのは戦争が終わってから、東京裁判の法廷でした。

 

 検察側の証人として証言台に立った元陸軍省兵務局長の田中隆吉少将が、「関東軍高級参謀河本大作大佐の犯行だった」と暴露したのです。それも関東軍司令官も承知している、いわば関東軍の総意によるものでした。関東軍というのは、日露戦争で日本のものになった旅順や大連のある遼東半島と、満鉄といわれた南満州鉄道の線路を守る警備を任務とした軍隊です。本来は番兵役である出先の軍隊が、勝手に火を点けて騒ぎを起こし、その混乱に乗じて満州を武力占領してしまおうとした。昭和の陸軍が、政治や外交を押し退けて出てくる。そのきっかけとなったのが、この張作需爆殺事件でした。しかも、河本大佐など関係者を軍法会議にかけて厳正に処罰しなかったため、満州事変から支那事変、さらには太平洋戦争へと、軍部の暴走を許す大きな原因にもなったのです。

 

 張作霧は、もともとは馬賊上がりです。それが、満州を事実上支配するほどの大きな力をつけたのは、関東軍の援助があったからで、田中首相も命の恩人でした。張作霖の祖父は飢饉を逃れ、北京のある河北省から食べ物を求めて奉天省へ移住してきた流民です。明治八年、その貧農の家に生まれた張作霖は、八歳の時に父親を亡くし、ろくに文字も知りません。近くの旅寵に奉公するうち、たまたま泊まった馬賊に誘われ二十二歳から八年間、馬賊の頭目として近隣を荒らし回ります。身長五尺二寸、白面痩身、小柄なやさ男だったそうですが、義理人情に厚く、統率力もあって、部下からも慕われていたといいます。日露戦争の奉天の戦いの直後、ロシア軍スパイとして日本軍に捕まったのですが、「見所がある。生かしておけば必ず日本の役に立つ」。こう言って、満州軍総参謀長の児玉源太郎大将に掛け合い、処刑寸前の命を救ってくれたのが満州軍参謀の田中義一中佐だったのです。張作霖は二百名の部下を騎兵隊に編成して隊長となり、清国軍に編入されましたが、それ以来田中を兄貴分として敬い、陸軍の出世街道を歩んだ田中もまた、影になり陽なたになって張作霖の満州支配を助けてきました。大正五年に奉天督軍兼省長になり、昭和二年六月には北京に進出して政府を組織し、大元帥として北は黒竜江から南は揚子江に及ぶ広大な地域に号令するまでになったのです。その張作霖が、いわば後ろ盾である関東軍によって殺されることになったのは、なぜだったのでしょうか。

 

 中国では、明治四十四年の辛亥革命で清国が滅んでから各地に地方軍閥が割拠し、内戦が続いていましたが、蒋介石が中国統一の軍事行動を起こしたのが大正十五年七月です。中国民衆のナショナリズム、反日抗日運動も日増しに激しくなっている時でした。日本では「憲政の常道」という政治的な枠組み、つまり政党内閣制、二大政党時代が形成されつつあった時で、その中で、そうした新しい中国情勢に日本がどう対処するのか。ことに旅順や満鉄など、日本が満州に持っている権益をどうやって守り、広げていくのか。この外交方針をめぐって、憲政会、政友会の二大政党が激しく対立したこと。そしてもう一つ、日本を襲った深刻な経済不況が、この張作霧爆殺事件の伏線になっていたのです。

 

 昭和の新しい時代は、「金融恐慌の嵐」と共に明けました。第一次世界大戦でヨーロッパの戦場から遠かった日本は、空前の軍需景気に沸きました。あれほどあった日露戦争の莫大な借金を、あっという間に返しただけではなく、経済活動も大きく発展しましたが、バブルがはじけるのも早かったのです。世界的な戦後不況が始まったところへ、大正十二年九月一日の関東大震災です。京浜地区の産業界は収拾のつかない大混乱に陥りました。工場、商品が焼失し、火災保険金も払われる見込みがないとなれば、ほとんどの企業は立ち行くことが出来ません。支払い不能の手形が続出し、政府は日銀にそうした震災手形を担保に二年間を限度に貸出させ、損失が出た場合には政府が一億円を限度に補償する。こういう救済融資を実施したのですが、金融恐慌の直接の原因はこの措置に潜んでいました。政府とすれば、その二年間の間に企業が再建され、手形が決済されることを期待したのですが、企業の返済は目先の不況に追われてさっぱり進みません。大正の末には震災手形四億三千万円のうち二億円が未決済、焦げ付き同然になっていたのです。

 

 昭和二年の金融恐慌は、「大蔵大臣片岡直塩の舌一枚から起こった」――よくこう言われていますが、三月十四日の衆議院予算総会は、震災手形の処理法案をめぐって白熱していました。憲政会の若槻礼次郎内閣の時で、野党政友会は 「震災手形を抱えている不良銀行がどこで、処理法案ではどの企業を救済することになるのか」、「それを明らかにしろ」と迫ったのです。具体的に答えれば、信用不安を広げることになり、さりとて全く答えないわけにもいかず、片岡蔵相は差し障りのない答弁していたのですが、激しい野次に相当頭にきていたのでしょう。大蔵次官から 「渡辺銀行が支払いを停止する」というメモを渡されると、「君らが余り騒ぐから、現にきょう正午ごろ渡辺銀行がとうとう破綻致しました」とやってしまったのです。東京渡辺銀行が「本日の交換尻の決済が出来なくなった」と、大蔵省に相談に来たのは事実なのですが、すぐその後で資金繰りがついて、営業は普段通り続けていました。ただ肝心の大蔵省にその連絡を忘れたため、片岡の早とちり失言になってしまったのです。翌日の朝刊各紙には渡辺銀行休業と蔵相発言がデカデカと掲載され、預金者の取付け騒ぎが始まりました。渡辺銀行はもちろん倒産しましたが、銀行という銀行は黒山のような群衆に囲まれたのです。

 

 この取付け騒ぎが、神戸の鈴木商店の経営危機を一気に表面化させることになりました。鈴木商店は大戦景気の儲け頭です。大番頭の金子直吉は、開戦三か月後の大正三年十一月、ロンドン支店に 「鉄鋼と名のつくものなら何でも、金に糸目をつけずに買いまくれ」。こういう指令を出し、まず鉄、次に船舶に手を広げ、大正六年の取扱高は十五億円、三井物産の十一億円を抜いて日本一の貿易商社になっていました。神戸製鋼所、日本製粉など子会社六十を数えましたが、三井、三菱、住友の財閥が自前の銀行を持っていたのに、鈴木商店は台湾の樟脳を扱っていた関係から、金融は政府が植民地台湾開発のために作った特殊銀行台湾銀行に依存していたのです。ところが、極度の輸出不振で返済期限がきても返せません。台湾銀行の方も前の貸しを生かすため、ズルズル追い貸しが重なり、貸出総額の半分、三億五千万円も鈴木商店だけに注ぎ込む結果になっていたのです。

 

 「鈴木商店が危なそうだ」、「鈴木の震災手形を一杯抱えているのは台湾銀行だ」――噂が飛び交う中、台湾銀行は鈴木商店と絶縁宣言して新規貸出を中止したのですが、すでに手遅れでした。警戒感を強めた三井銀行を皮切りに、大手の銀行が台湾銀行に対するコールローン、「一時貸しの短期資金を返せ」と一斉に回収を迫ったのです。鈴木商店は四月五日に営業を停止しましたが、台湾銀行は鈴木からは取れない、コールも返せない。最後の頼みの綱だったコール市場からも締め出され、営業困難となって日銀に助けを求めました。ところが日銀も、「これ以上台湾銀行に貸すには政府の補償が必要だ」 と言います。万一の場合、政府が代わって支払うには議会の承認が必要なのですが、議会は三月未に終わったばかりでした。臨時議会を召集していたのでは、議決を得るまでに時間がかかってしまい、その間に台湾銀行が倒産すれば大混乱になります。そこで若槻内閣は窮余の策として、「日銀が台湾銀行に非常貸出を行い、それによって生ずる日銀の損失を二億円を限度として政府が補償する」。こういう台湾銀行救済策を、緊急勅令の形で枢密院にかけて処理しようとしたのです。

 

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