第1回 明治の外交


 私が新聞記者をしていたころ、作家の司馬遼太郎さんを講演にお招きして、その後何度かご一緒にお酒を飲む機会がありました。司馬さんは大変な座談の名手で、いつまで話していても飽きないといった楽しいお酒でしたが、その時印象に残っている話があります。司馬さんご自身、本に書いていらっしゃるのでお読みになった方も多いと思いますが、司馬さんは終戦直前、戦車師団の将校として栃木県の佐野市にいました。米軍の本土上陸に備えた日本陸軍虎の子の決戦師団ですが、作戦指導にきた大本営の参謀に質問が出ました。米軍が上陸してくれば、当然主な道路は避難民で埋まってしまう。戦車が上陸地点に駆け付けるのに障害になるが、どうすればいいかと。するとその参謀は、即座に「ひき殺していく」と答えたと云うのです。日本人のために戦っている日本の軍隊が、味方をひき殺す。一体どこからそんな論理が生まれてくるのか。

 

 「坂の上の雲」をはじめ、司馬さんの数多くの著作は、この疑問から始まっていると思うのですが、実は長年新聞記者をしてきた私が'いつも自分に問い続けてきたのも、日露戦争に勝利した日本が、なぜわずか四十年の間にあの太平洋戦争を始め、敗戦の運命を迎えなければならなかったのか。この点でした。日露戦争の頃の日本のリーダーは、世界の中の日本の弱い立場をよく知っていました。現実認識にも優れていました。それが一体どこから狂ったのか。日露戦争がその分岐点だったとすれば、なぜそうなったのか。自分なりにもう一回現代史を洗い直して、皆さんと一緒に考えてみたい。これが歴史の専門家でもない私が、この講座を始めた動機でした。

 

 さて、明治とはどんな時代だったのでしょうか。一言で云えば、近代国家として誕生したばかりのひ弱な日本を外国の侵略からどうやって守るか。また幕末のどさくさに結ばされた不平等条約を、どうやって改正するか。この二つの国家目標に苦闘した時代でした。きょうの話の主人公である陸奥宗光と小村寿太郎の二人が、日本の外交の第一人者として名前を残すのも、この明治国家最大の国家目標を解決したからなのです。

 

 明治十九年、一八八六年という年は、「第二の黒船」ともいうべき、二つの事件が起きた年でした。一つは八月の長崎事件です。丁汝昌提督率いる清国の北洋艦隊が長崎に入港したのですが、朝鮮半島をめぐって日清の対立が深まっている時です。表向きは親善訪問でも、実際は日本に対する清国海軍のデモンストレーションでした。何しろ定遠、鎮遠は七千四百㌧、四門の十二吋砲を備えた世界最大の鉄鋼艦です。その頃の日本の軍艦は二、三千㌧がやっと。まあ鉄骨木造艦みたいなもので、大砲の口径も半分の六吋砲しかありません。軍艦の大砲にしても盾一枚で敵弾を防いでいたのに、定遠、鎮遠は砲塔と云って、大砲を厚さ十四吋の鉄鋼で囲ってあります。それを自由自在にグルグル動かして発砲するのですから、初めて見た日本の海軍士官は、「神業のように思えた」と云っています。ですから、海軍の軍人をからかって、「君、定遠に勝てるかね」が流行り言葉になったそうです。

 

 事件は、酒に酔った清国水兵が丸山遊廓で暴れ、日本の警察に捕まったことから始まりました。その水兵を奪い返そうと清国水兵四百人が長崎警察署を襲撃、斬り合いになって八十人余りの死傷者を出したのです。市内のあちこちで乱暴狼籍しても、力では敵いませんから、ひたすら低姿勢です。「警官にサーベルを持たせるな」。こんな屈辱的な要求まで呑んで、一日も早い清国艦隊の出港を願ったと云います。定遠鎮遠の脅威を現実に見せ付けられ、明治維新以来初めて国民の関心を国の安全に向けさせた事件でした。

 

 明治政府も慌てて国防強化のため千七百万円の海軍公債を募集しました。当時の海軍予算が四百九十万円だったと云いますから三倍半のお金を国民の愛国心に訴えたわけですが、長崎での屈辱が引き金になり、国民は争うようにして応募したのです。このお金で日本三景から名前をとった松島、橋立、厳島の三隻の軍艦を造りましたが、定遠、鎮遠に対抗するには、さらに速射砲を備えた快速艦が必要でした。明治天皇が三十万円の建艦費用を寄付されると、国民はせいぜい三円、五円といった乏しい財布の中から、身を削るようにして三十銭、五十銭と献金しました。当時の新聞を見ますと、連日のように一段、二段の紙面を割いて寄付者の名前が掲載されていますが、二百三万円も集まったそうです。戦前日本が世界に誇った連合艦隊の土台は、まさにこの長崎事件がスタートだったのです。

 

 もう一つは十月、イギリスの貨物船ノルマントン号が嵐の紀伊半島沖で遭難沈没した事件です。船長以下イギリス人船員はボートで脱出したのに、船倉にいた日本人乗客は二十三人全員が水死しました。 「日本人は見殺しにされた」と国民は怒りましたが、当時の日本には裁判権がありません。神戸で開かれたイギリス領事の裁判で、ドレーク船長は無罪です。新聞各紙が「外人は日本人乗客を処すること荷物の如し」とキャンペーンを張り、轟々たる世論に押された内務省が、船長を殺人罪で告訴したのですが、横浜の領事裁判でも禁固三か月でした。国民は改めて不平等条約の理不尽さ、国際社会ではまだまだ二流国民として扱われている悲哀を痛感したのです。何でこんなことになったのでしょうか。

 

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