第13回 シーメンス事件と山本権兵衛内閣

 低迷する景気に、先行きの見えない改革。今年(平成15年)こそ何とかいい年であってほしいと思いますが、実はちょうど九十年前、やはり「行財政整理」と「構造改革」が歴代内閣最大の政治課題になっている時、これを見事に断行した総理大臣がいるのです。それも首相就任後わずか四か月でやってのけたのです。先月お話した大正政変の直後、大正二年二月に首相となった薩摩出身'海軍大将の山本権兵衛です。役人の数を六千八百七十八人減らし、臨時職員まで入れると実に1万人です。これによる経費節減六千六百万円、いま六千六百万なんて云っても少しも驚きませんが、その年の歳出が六億円ですから、その十一%という大変大きなものでした。こんなに短い期間でこれだけの仕事をした総理大臣は、そうはいないでしょう。

 

 しかしその山本内閣も、シーメンス事件と云う、突然降って湧いたような海軍の軍艦建造をめぐる汚職事件で、一年一か月で総辞職に追い込まれてしまいました。山本は関東大震災の直後に再び首相になりましたが、今度は虎ノ門事件、無政府主義者の難波大助が摂政の宮だった昭和天皇を狙撃した事件で、またも短命内閣に終わりました。山本は、首相としてはまさに「悲運の宰相」でした。歴史に「もしも」はないと云われますが、もし最初の山本政権がもう少し続いていたら、日本のその後の進路もあるいは変わっていたのではないか。そう思うほど、山本権兵衛は大きな存在でした。明治から大正にかけて山県有朋、桂太郎といった長州閥に対抗出来た、数少ない政治家の一人だったと云っていいでしょう。桂は山県に可愛がられ、人をそらさない政治手腕で三度首相になっています。常に山県をバックにして、その路線を歩んでいればよかったのですが、山本の場合はむしろ山県と対抗して、海軍を陸軍と同等の地位に引き上げました。文字通り日本海軍「育ての親」であり、剛腹さと突進力で「山本なら」といった期待感を持たせる人でした。

 

 山本は、薩摩からは松方正義内閣以来十五年ぶり、海軍からは初めての首相でしたが、この山本内閣誕生の引き金になったのが大正政変です。簡単におさらいしますと、大正元年十二月からわずか二か月余りの間に、二つの内閣が倒れてしまいました。まず政友会の西園寺公望内閣ですが、陸軍はロシアに備えるのだと云って、二個師団、約五万人の兵力増強を強硬に要求してきました。日露戦争に勝ったとはいえ、日本は外国から莫大な借金をしています。財政上とても無理だとはねつけると、陸軍大臣が辞職してしまったのです。「陸海軍大臣現役武官制」つまり「陸海軍大臣は現役の大将、中将に限る」という規定を盾にとって、陸軍が内閣を倒した最初の例となりました。代わった第三次桂太郎内閣も、「憲政擁護・閥族打破」の国民の大合唱に五十日余りで崩壊しました。閥族というのは、師団増設要求をゴリ押しして、西園寺内閣を倒した長州閥と陸軍のことです。内大臣兼侍従長として宮中にいた桂が首相になり、事あるごとに天皇の詔勅を利用したのでは、憲法に基づいた政治が出来ない。「立憲政治を守れ」と新聞や政党が先頭に立ち、こちらは世論、民衆の力が内閣を倒した最初の例です。

 

 これが大正政変ですが、こうまで長州と陸軍が憎まれていては、さすがの山県も自分の所からは首相を出せません。元老会議で西園寺の推薦もあって、これまで何度か候補に上がっていた山本権兵衛内閣となったのです。ところが護憲運動最大の目標は「政党内閣」の実現でした。それなのに直前まで政友会総裁をしていた西園寺が、薩摩閥であり、海軍の山本を推したのは何故だったのでしょうか。第三代政友会総裁になった原敬を首相にするには、まだまだ元老たちの反対が強すぎました。と云って、ぐずぐずしていては、桂という頭を代えただけの、長州閥と官僚の内閣になってしまいます。西園寺は、政友会の政策実現に山本の実行力、突進力に期待をかけたのです。山本としても政権を引き受けるからには、議会第一党である政友会の支持、とりわけ力のある原敬の入閣は絶対条件でした。

 

 しかし「閥族打破」をスローガンにしてきた政友会が、薩摩とはいえ同じ閥族の山本と組むということは、火中の粟を拾うようなものなのです。果たして党内からは反対論が続出しましたが、原敬がそれを押し切って全面協力を約束し、自ら内務大臣、副総理格で入閣したのも、山本の力で実質的に政党内閣に持っていけばよい。そういった原らしい、現実的な読みからでした。事実山本内閣は、大蔵大臣の高橋是清ら三人が政友会に入党し、結果的には、首相と外相、陸海軍大臣以外は全て政友会党員という、歴代内閣では最も政党内閣に近い形になったのです。

 

 それでも政友会は分裂しました。反対の急先鋒は、護憲運動で「憲政の神様」と云われるようになった尾崎行雄です。尾崎は云っています。「護憲運動の精神は閥族を打破し、日本人なら誰でも対等にすることだ。それが薩摩というだけで、同じ閥族の山本を助けるとは何事だ」。尾崎や岡崎邦輔、外交評論家として活躍していらっしゃる岡崎久彦さんのお祖父さんですが二十四人が脱党して政友会は議会の過半数を割ってしまったのです。大正二年度予算もたった五票差、かろうじて議会を通過したほど、山本内閣発足早々のピンチでした。しかし原敬という人は、こういう時に強いのです。どんなに理想論を云っていたって、野党では何も出来ない。本音は政権にありついていたいのだ。原はそうした政党人心理を巧みに衝いて、脱党者を切り崩していきました。岡崎自身「いやで別れたのではない。亭主がちょっとだらしないから、改心させるために脱党したのだ」。こう云っているように、山本内閣が実績をあげて行くと共に続々と復党し、政友会は再び二百三議席、野党より二十六議席も多い絶対過半数を確保したのです。大正二年七月の末、東京商業会議所は山本首相以下閣僚全員を午餐会に招待して、会頭の中野武営はこう演説しました。「昔から云うは易し、行なうは難しと申します。どの内閣も整理の必要は認め、これを口にしましたが、実行出来ませんでした。ところが閣下は断固として実行され、吾人のすこぶる痛快に感ずるところ」と最大級の賛辞を贈ったのです。辛口の評論で知られる雑誌「日本及日本人」も「近来出色の内閣として注目に値する」と書き、「さすが権兵衛」の声は日増しに高くなっていきました。十一月十日には、大正天皇をお迎えして東京湾で海軍の観艦式が行なわれましたが、一きわ注目を集めたのが最新鋭巡洋戦艦金剛の雄姿です。日本海軍が外国に発注した最後の軍艦で、イギリスで建造され南アフリカの喜望峰を回って日本に着いたばかりでした。その十四インチ砲八門は、まだ世界のどの海軍も持っていない一番大きな大砲であり、海軍出身の山本の長期安定政権を象徴しているかのようでした。

 

 年が明けて大正三年一月二十一日、議会で朗々と施政方針演説をする山本を、時事新報の記者前田連山は「猛虎一声山谷震う」、虎が三戸吠えて山や谷が震えたと書いています。山本は自信満々でした。ところがその深夜、.海の向こうから届いた一通の海外電報が、この山本内閣の死命を制することになったのです。

 

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「シーメンス事件と山本権兵衛内閣」講演録全文
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「シーメンス事件と山本権兵衛内閣」配布資料(メモ)
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