第15回 シベリア出兵と寺内正毅内閣

 きょうは、ロシア革命をきっかけに始まったシベリア出兵について、時の寺内正毅内閣を中心に話してみたいと思います。今シベリアと云うと、たいていの方がまず思い浮かべるのは、敗戦後の「シベリア抑留の悲劇」ではないでしょうか。それほど八十五年前のシベリア出兵は、遠い出来事になってしまいました。日本がウラジオストックに軍隊を送ったのは、大正七年八月ですが、それが十一年十月の撤兵、軍隊を引き揚げるまで、実に四年二か月もかかってしまったのです。この間最大で七万三千人、延べ二十四万人の将兵がシベリアの原野に展開し、五千人の戦死者を出しました。使った戦費十億円は、当時の国家予算のほぼ一年分です。これだけ大きな犠牲を払いながら、得たものは「無名の師」、つまり大義名分のない出兵だという国内の批判であり、「シベリアに野心を持つ日本」といった国際的な不信感だけでした。

 

 何でこんなことになったのでしょうか。元はと云えば、日本にしつこいほど「出兵しろ」と云ってきたのは、イギリスであり、フランスだったのです。そして「日米共同で出兵しよう」というアメリカの提案があって、初めて実現した出兵でした。しかも、革命で混乱するロシアに野心があったのは、何も日本だけではありません。大なり小なり、各国それぞれ思惑があったのに、日本だけが悪者にされてしまいました。正直いって、日本は引き際を誤ったのです。シベリアは日本のすぐ傍です。この地理的な環境が、もし革命の波が日本に波及してくれば大変だと、革命に対する怯えを強くしました。そして、この機会にシベリアでこの波を抑えてしまい、同時にシベリアの利権も手に入れようと、陸軍の野心も膨らませました。各国が軍隊を引き揚げた後も、ズルズル居座るといった判断ミスを生み、泥沼に足を突っ込む結果になってしまったのです。

 

 このシベリア出兵を強行したのは寺内正毅内閣です。長州出身で、元帥、陸軍大将の寺内が、大隈重信に代わって首相になったのは大正五年十月ですが、新聞は「ビリケン首相」、「ビリケン内閣」と書き立てました。写真でもお分かりのように、寺内は禿げていて頭の先が尖っています。その頃アメリカから輸入されて人気のあった「福の神人形」、ビリケンにそっくりだと云うので、からかい半分もありました。しかしそれ以上に「政党政治や国民の声を無視した内閣だ」。この反発が強かったのです。うまい言い方をするものですが、新聞はビリケンにわざわざ漢字で「非立憲」の三文字を当てて、立憲政治に非ざる内閣だと批判したのです。

 

 大正新時代と共に、大正デモクラシーの気運が盛んになっていました。大体が大正三年四月に大隈内閣が誕生したのも、「憲政擁護、閥族打破」、「立憲政治を守れ、藩閥政治を打ち破れ」といった民衆の声を、この国民に人気のある民衆政治家の手で鎮めたい。長州閥の総帥山県有朋にとっては、そんな願いもこめたワンポイント・リリーフだったのです。ところが山県は、大隈内閣の外交政策に大きな不満を持ちました。外務大臣は立憲同志会総裁の加藤高明でしたが、加藤は山県たち元老を無視して、強気の外交を進めたのです。第一次世界大戦が始まると、元老には相談もせずにドイツに宣戦布告しましたし、中国に悪名高い「二十一か条要求」を突き付けたのも、この大隈内閣です。山県という人は「軍国主義の権化」のように見られがちですが、こと外交に関しては非常に慎重な人なのです。対米関係、対露関係を大切にし、武力を背景にした「二十一か条要求」にも、そんな「弱い者いじめはするな」と反対でした。

 

 大隈が内外の政策に行き詰まり、元老の支持も失って辞意を固めた時、長年政党政治を訴え続けてきた大隈のことですから、当然自分の後の首相には議会第一党である立憲同志会の加藤を考えていました。大隈は参内して「加藤高明は練達堪能の士にして、自分の後継として高明を抜擢せられんことを」。大正天皇にこう云う異例の辞表を提出したのですが、加藤に不満がたまっている山県には、サラサラその気はありません。元老会議で「世界大戦中の重要な時期だから、挙国一致内閣が必要だ。それには一党の党首を首相にするのは望ましくない」。こう云って、後継首相に寺内を決めたのです。

 

 寺内は長州閥にとっては、桂太郎内閣以来三年半ぶり、待望の首相でしたが、果たして首相にふさわしい器だったのでしょうか。寺内の長男寿一は、太平洋戦争の南方軍総司令官で元帥。「親子二代元帥」という陸軍では大変華々しい家系ですが、寺内が長州閥でなかったら、恐らく大尉止まりだったろうと云われています。西南戦争で右手に重傷を負い、普通なら増加恩給で一生を暮らす老大尉のはずでした。それが長州閥のお陰でクビにもならずに昇進し、ほとんど文官勤務だけで明治三十五年には陸軍大臣になったのです。前任の陸軍大臣児玉源太郎はこんなことを云っています。「寺内は自分のように盲判を捺すヤツではない。書類の第一頁から終わりまで目を通した後でなければ、決して判を捺さない」。一見、寺内の手堅さを讃めているようですが、実は小心翼翼、大局観のない一事務屋に過ぎない。こう云っているような感じがします。この人はまた「規則が軍服を着ている」といわれたくらい、規則とか法令といったものにやかましく、ちっちゃな事でも下に任せておけず、いちいち口出ししなければ気が済まない性分でした。その寺内の陸軍大臣在任は何と九年半です。今みたいに大臣がクルクル代わる時代には考えられないことですが、こんなうるさ型がこれだけ長く大臣をやれば、「長州でなければ陸軍は勤まらない」、「長州の陸軍」と云われた長州全盛の時代が統いたのも領けます。

 

 明治四十三年に陸軍大臣在任のまま初代朝鮮総督になった寺内が、憲兵中心の武断政治をやって「朝鮮王」といわれたのは有名な話です。朝鮮全道に憲兵隊を置き、辺地のような所にまで憲兵の駐在所を設けて、それこそアリの這い出るすきもないほど憲兵の監視網を張り巡らせたのです。当時の新聞を見ますと「朝鮮で独り得意なのは寺内だけ。不平を云わないのは物云わぬ山と森と川だけだ」。こんな記事が出ています。大阪朝日の編集局長鳥居素川が、寺内に面会を求めた時の話です。権威主義の寺内は、自分が偉いところを見せ付けようとしたのでしょう。総督室の入り口にイスを置かせて、そこで引見しようとしたのですが、反骨で鳴る鳥居は自分でそのイスをわざわざ寺内の真ん前まで持っていって、寺内の朝鮮統治の失敗を痛烈に叩いたと云います。

 

 その寺内が首相になったのですから、言論界は挙って大反対です。大阪朝日は社説で、「元老が衆議院の勢力を無視して、寺内に組閣させるのは、一国の政治が国民の希望によって行なわれるかどうか。国民の参政権が実行されるかどうかの問題である」。こう書いて、寺内内閣を「非立憲内閣」だと攻撃したのです。対する寺内は、それまで六千人だった警視庁巡査を一挙に一万人に増やし、これで民衆運動を抑え込み、新聞には厳しい言論統制で臨みました。

 

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「シベリア出兵と寺内正毅内閣」講演録全文
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