第16回 ワシントン会議と加藤友三郎

 きょうは、「軍縮の時代」を開くことになったワシントン会議と、海軍大臣としてこの会議の首席全権を務めた加藤友三郎についてお話します。ワシントン会議というのは、海軍の軍縮を主なテーマに、一九二一年、大正十年十一月からワシントンで開かれた国際会議です。日本は、戦艦、巡洋戦艦といった主力艦について対米七割、アメリカに対しては国防上どうしても七割の兵力が必要だとして、会議に臨みましたが、結果はいわゆる「五・五・三」、米英の五に対して日本は三と、六割の比率で決着したのです。

 

 この「六割海軍」には、海軍部内もそうですが、対外強硬派や一般国民の間にも大きな不満がありました。私が子供の頃、世界地図に各国の軍事力の比較が、海軍の場合は軍艦の形をした黒いシルエットで載っていたものですが、日本海軍はアメリカ、イギリスに比べてちょっとちっちゃいのです。フランスやイタリアはもっと小さいのですが、何で日本が小ざいのか、子供心に悔しい思いをしたものでした。子供だってそうなんですから、日露戦争に勝って世界の一等国になったと自負している人たちの間には、「米英に押しつけちれた屈辱条約だ」。こんな憤慨する声がありましたが、軍艦を造るには大変なお金がかか.るのです。海軍の最高責任者である加藤友三郎は、このまま競争で軍艦を造り続けていたら日本の財政は破綻してしまう。世界の大勢、日本の国益を冷静に判断した上で「五・五・三」を受け入れ、海軍の軍縮に踏み切ったのです。帰国して首相となった加藤は、自分が造った軍艦を自分の手で沈めるといった後始末もやってのけました。

 

 加藤は世間的には、日本海海戦の連合艦隊参謀長として知られているくらいのもので、無口で地味な提督でしたが、このワシントン会議で見せた見識、総合判断力、決断力、さらには統制力は際立っていました。そして何よりも政治が軍事をリードしたという点で、加藤は戦前十六人を数えた軍人首相の中でも、第一位に挙げるべき優れた政治家だったと思うのです。

 

 この軍縮会議開催の原動力となったのは、大正三年七月に始まった第一次世界大戦です。日本はイギリスとの同盟、日英同盟を大義名分にドイツとの戦争に入りましたが、それは従来の戦争の観念を一変させるものでした。ドイツなどの同盟国と、イギリス、フランス、ロシアなどの連合国陣営とに分かれ、参戦国が三十二か国、動員兵力約六千万、死傷者実に一千九百万人。まさに地球的規模の戦争であり、飛行機、戦車、毒ガスなどの新兵器が現われましたし、都市爆撃や長距離砲の砲撃で一般市民も巻き込まれ、前線も銃後もない総力戦、長期戦となったのです。四年三か月余りにわたった大戦は、大正七年十一月、ドイツの降伏で終わりましたが、戦争の悲惨さを身を以て味わった人たちの間には、「二度と再び、こんな戦争はしたくない」 と、平和への願いが強くなってていきました。

 

 ワシントン会議については、 「イギリスという御者が、アメリカという馬車を走らせたのだ」。よくこう言われます。つまり会議を呼び掛けたのはアメリカなのですが、軍縮気運を作り出しアメリカに会議を開くよう仕向けたのはイギリスだというのです。イギリスは大戦に勝利したとはいえ、経済の痛手は大きく、窮乏のどん底にあえいでいました。復興優先で、とても軍艦を造るどころの話ではありません。それどころか、維持費が大変だという理由で、大正九年に三隻、十年には五隻の戦艦を廃棄処分にするところまで追い込まれていたのです。かつては七つの海を支配したイギリス海軍が、戦争に全く痛手を受けなかったアメリカ海軍に「世界一の座」を奪われるのは目に見えていました。それを防ぐ手立てとなると、列強各国に呼び掛けて軍備を縮小することですが、イギリスが自分の方から言い出すのはプライドが許しません。ロイド・ジョージ首相は 「戦争はもう懲り懲りだ」という、世界中にみなぎっている平和待望論に訴えたのです。大正九年十二月二十四日、議会で 「世界のいかなる地域であれ、大規模な軍備を行なうことは、必ずやあらゆる国々を貧困と破局へ導くことになろう」。こう演説したのですが、アメリカへ向けての軍縮アピールでした。そして、そのアメリカを動かした切札が、間もなく満期を迎える日英同盟だったのです。

 

 明治三十五年一月に結ばれた日英同盟は、日本外交の基軸でしたし、日露戦争に日本がどうにか勝利することが出来たのも、この同盟のお陰だったといってもいいでしょう。最初は、日本やイギリスが二国以上と戦争になった場合に参戦義務を負うという、ドイツやフランスがロシアにつくのを牽制した防守同盟でしたが、日露戦争中の三十八年八月、どちらかが戦争になれば直ちに参戦義務を負う攻守同盟に強化されました。そして四十四年七月に第三次改定が行なわれ、対米関係を気にするイギリスの希望でアメリカを同盟の対象国から外したのですが、期限十年ですから大正十年七月に満期を迎えることになります。イギリス国内では、極東でのロシア、ドイツの脅威がなくなった以上、同盟は当初の存在意義を失った。こういった意見がありましたし、日本の中国進出に対する警戒感も出ていました。日本はこの大戦で、山東半島のドイツの租借地青島を占領し、大正四年一月、第二次大隈重信内閣の時ですが、中国に 「二十一ヵ条要求」 を突き付け、領土的野心があるのじゃないかと警戒されたのです。日本人の政治・財政・軍事顧問を雇えとか、日本人の病院、お寺、学校の土地所有権を認めろとか、あるいは大勢の日本人警察官を雇え、兵器も半数以上は日本のものを使え。こんな要求を二十一も出して中国の反日・抗日運動に火を点けることになったのですが、そこへパリ講和会議で国際連盟が設立され、同盟をそのままの形で継続することに難しい状況が出てきました。連盟規約は第二十条で「規約の条項と両立しない、連盟加入国相互間の義務または了解は、廃棄されるべきである」。こう規定しており、攻守同盟である日英同盟は、国際紛争を平和的に処理しようという連盟規約の条項とは相容れないものとなったのです。

 

 それでもイギリス政府は、極東での通商、権益を日本海軍に守ってもらうのですから、同盟を連盟規約に抵触しない形で修正し、またアメリカの同盟に対する反感を和らげる措置を講ずる――こういう基本方針を決めていたのですが、大英帝国の防衛に関連のある問題は、自治領諸国にも諮る必要があるとの意見が出てきて、最終的な態度決定は大正十年六月二十日からの大英帝国会議に持ち越されたのです。廃止論の急先鋒であるカナダ首相は、「同盟継続はアメリカを軍拡に走らせ、カナダの安全にとって害になる。英米親善を実現するためには、日英関係を犠牲にするのも止むを得ない」。これに対してオーストラリア首相は、太平洋地域の安全保障という観点から日本との同盟維持を強調し、ニュージーランドも同調しました。自治領各国の安全に関わる問題だけに、一致点が見出せないまま、イギリス政府はこういう方針を決定したのです。アメリカ政府の好意的な仲介に期待をかけ、大統領に太平洋会議の開催を要請し、日本には会議への参加を促すことを優先事項とする。つまり、日英同盟をどうするか、このカードをアメリカに預ける形で国際会議開催を働き掛けたのですが、そのアメリカの希望は日英同盟廃棄なのですから、同盟の運命はこの時に決まったとも言えるわけです。

 

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「ワシントン会議と加藤友三郎」講演録全文
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「ワシントン会議と加藤友三郎」配布資料(メモ)
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「ワシントン会議と加藤友三郎」配布資料(年表)
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