第17回 陸軍の軍縮と軍国化への道

 きょうは先月お話した「海軍の軍縮」に続いて、「陸軍の軍縮」 の話をします。大正十一年二月のワシントン会議で、日本は戦艦など主力艦について、いわゆる「五・五・三」、アメリカやイギリスの五に対して、日本は三と六割の比率を受け入れました。第一次世界大戦が終わり、「戦争はもうこりごり」という平和待望ムードもありましたし、深刻な戦後不況も始まっていました。全権の海軍大臣加藤友三郎は、このまま競争で軍艦を造り続けていたら日本の財政は破綻してしまう。世界の大勢、日本の国益を冷静に判断して軍縮に踏み切ったのですが、この海軍の軍縮は当然のことながら、「海軍がやったのだから陸軍も」と、陸軍にも軍縮を求める強い世論を生むことになりました。

 

 陸軍はいわば世論に押される形で、大正十一年と十四年の二回にわたって九万三千人の兵力を減らしたのですが、それは明治国家誕生以来、「富国強兵」を合い言葉に膨張に膨張を重ねてきた陸軍としては初めてのことであり、また画期的なことでもありました。軍縮と云えば、まあ誰だって戦争を避けるための平和路線を頭に思い浮かべます。ところがこの時、その裏ではそうした定義とは全く正反対に、中学校以上の学校に軍事教練を導入するなど、昭和に入って軍部独裁につながる軍国化路線が着々と敷かれていたのです。この筋書きを作って実行に移した人物こそ、これまでの話にも何度か登場した陸軍大臣の宇垣一成です。

 

 ワシントン会議の開催が決まった時、陸軍は警戒しました。議題は海軍の軍縮であっても、自分の所も軍縮を迫られるのではないかと。そこで陸軍は「一兵たりといえども減らさない」と強硬姿勢を見せたのですが、結局ワシントン会議の議題から陸軍は外されました。軍艦は数さえ減らしておけば、戦争になったからといって、急に建造出来るものではありません。海軍の軍縮は戦争を防ぐ抑止力になりますが、陸軍の場合は簡単に戦時動員出来ます。いくら普段の軍隊を減らしておいても、余り意味がないというわけです。

 

 ところが、これがかえって国内の世論を反発させることになりました。軍需景気に沸いた大正バブルがほじけ、慢性的な不況が始まっている時です。陸軍が盛んに口にしてきたロシアの脅威にしても、革命で帝政ロシアが倒れ、当面大きな軍備を持つ理由がなくなっていました。それなのに、陸軍だけがのほほんとしているのはおかしい。大正十一年二月一日、陸軍の大御所・山県有朋が亡くなったのと歩調を合わせるようにして、陸軍は政党の集中砲火を浴びることになったのです。野党の憲政会、国民党に続いて、与党の政友会も陸軍の軍縮を求める建議案を提出しました。衆議院は三月二十五日、「陸軍は各種機関を統合して、年間経費四千万円を節減せよ」と云う決議案を圧倒的多数で可決し、陸軍大臣の山梨半造も「整理を検討中である」と、答弁せざるを得なくなったのです。

 

 この間、政権も目まぐるしく代わっていました。ワシントン会議の直前、政友会の原敬首相が東京駅で暗殺され、代わった高橋是清首相も政友会の内紛で総辞職し、首相にはワシントン条約をまとめて帰国したばかりの加藤友三郎が就任しました。加藤内閣最大の課題は軍縮の実行です。加藤は組閣最初の閣議で、軍縮については次の議会を待つことなく、準備が出来次第実施に移すという方針を決めたのです。陸軍にとっては 「待ったなし」 でした。

 

 そこで陸軍が考えたのが、当時二十一あった師団の数はそのままにして、兵隊の数を間引きすることです。一連隊は三個大隊、各大隊は四個中隊の編成でしたが、これを三個中隊編成にして全部で二百二十中隊減らし、将校二千百人など五万九千人を整理したのです。いざ戦争になった時、作戦の基礎となる師団の数さえ減らさないでおけば、兵舎などの施設がありますから、動員した兵隊を教育することが出来ます。二十一の師団を二倍の四十二個師団にするのも、比較的簡単だと云うわけです。大正十一年八月十五日から実施され、山梨陸軍大臣の時に行われたので 「山梨軍縮」 と云います。

 

 陸軍は「この兵力削減は五個師団分に相当する」と説明しましたが、議会には「手緩い、不徹底だ」と大きな不満が残りました。と云いますのは、陸軍の経常費は三千百万円減りましたが、機関銃など兵器の増強費を引くと、正味は二千三百万円です。議会の要求した四千万円にはとても及びません。しかも海軍が前年に比べて二二・七%も減らしたのに、陸軍はたったの六・五%だと云うのです。

 

 それから三年後の大正十四年、「宇垣軍縮」と云われる第二次軍縮をやることになる字垣一成は、この「山梨軍縮」をどう見たのでしょうが。字垣は日記に、八月十五日を「軍人生活での第一の不快な日、第一の悲しむべき日、第一の憾むべき日」と書いています。宇垣は時勢とはいえ、軍縮には大反対でした。そしてこんなことになったのは、「下手な舵取りだったからだ」と、山梨をこき下ろしています。山梨は神奈川県出身ですが、長州閥のホープとして出世街道を歩んでいた田中義一大将と士官学校の同期生です。田中にべったりくっついて、田中が大臣の時に陸軍次官となり、その引き立てで大臣になった人でした。宇垣に云わせると「長い物に巻かれろの、権勢に楯びる利己主義者」。軍縮をやれと云われて、ただそれに従って兵力削減の帳面面を合わせただけだ。「山梨軍縮」は軍縮そのものであって、一番かんじんな、第一次世界大戦の経験を生かした陸軍の近代化、整理・充実には、何の役にも立っていないと云うのです。

 

 世界大戦は、それまでの戦争の観念を根底から引っ繰り返してしまいました。飛行機、戦車、毒ガスと新兵器が続々と登場しましたが、何といっても大鞄と機関銃です。「砲兵は耕し、歩兵は収穫する」と云う言葉まで生まれたほどです。大砲の集中砲撃で、まず敵の陣地を制圧してしまう。日露戦争の時のように、小隊長が先頭に立って軍刀を振るい、「俺についてこい」といった銃剣突撃、白兵戦はもう通用しなくなっていました。「散兵線の花と散れ」という軍歌がありました。散兵線といって小銃を横一線に並べ、一斉射撃のあと銃剣突撃で血路を開く。これが日本陸軍の伝統的な戦法でしたが、これでは大砲と機関銃の餌食になるだけです。とにかく機関銃をバリバリ撃ったら、すぐ突撃分隊に突撃させる。機関銃を中心とした小人数の戦闘に、指揮も戦法もすっかり変わってしまったのです。

 

 ところが外国の歩兵大隊は、少なくとも四丁の重機関銃、十二丁の軽機関銃を持っているのに、日本の歩兵部隊には機関銃が一丁もありません。まして歩兵砲や戦車といった、近代兵器のあろうはずがありません。飛行機にしても偵察機だけ、敵を攻撃する戦闘機や爆撃機は一機もないのです。ドイツやイギリスでは都市爆撃が行われ、前線も銃後もない総力戦になっている時です。ヨーロッパの血みどろの近代戦をじかに経験しなかった日本陸軍は、二流どころか三流、四流の旧式装備のまま取り残されてしまったのです。

 

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「陸軍の軍縮と軍国化への道」講演録全文
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「陸軍の軍縮と軍国化への道」配布資料(メモ)
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「陸軍の軍縮と軍国化への道」配布資料(年表)
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