第19回 ロンドン会議と浜口雄幸内閣

 これからお話するロンドン会議は、日本海軍の歴史の上では 「悲劇のロンドン会議」と言われています。ロンドン会議というのは、巡洋艦や駆逐艦、潜水艦、こういった軍艦を艦隊作戦で戦艦などの主力艦を助ける役割をするので補助艦と言いますが、その補助艦の建造を制限しようと、昭和五年一月からロンドンで開かれた国際会議です。日本は対米七割、アメリカに対しては 「国防上どうしても七割の兵力が必要だ」として、この会議に臨みましたが、結果は六割九分七厘五毛でした。七割に欠けること、たったの〇・二五%です。まあ、誰が考えたってほとんど七割、「相手のある外交交渉としては成功だった」 と言っていいでしょう。ところが海軍の作戦機関である軍令部は、「これでは国防に責任が持てない」と強硬に反対したのです。でも言葉を換えれば、「七万円なら暮らせるが、六万九千七百五十円では生活できない」。こう言っているようなものなんですね。それが如何に意味のないものだったのか。単なる数字ノイローゼに過ぎなかったことは、太平洋戦争の経過がはっきり証明しています。

 

 そして、このロンドン条約の調印をめぐって、それまで統制のとれていた海軍が、初めて賛成派と反対派に分裂したのです。反対派に艦隊勤務者が多かったことから「艦隊派」と言いますが、海軍はやがて強硬論の艦隊派が主流となり、国際認識の豊かな条約賛成派の軍人が次々と海軍を追われていきました。この人たちが海軍に残っていたら、あるいは戦争を防げたのではないか――それで「悲劇のロンドン会議」と言うのですが、日本にとってそれ以上に悲劇だったのは、このロンドン会議をきっかけに、「統帥権」という巨大な軍事権力が'政治や外交を押し退けて出てくるようになり、軍部独裁への道を開くことになったことでした。

 

 統帥権とは、軍隊を動かすこと、軍隊の最高指揮命令権のことです。明治憲法は第十一条で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」。こう規定しており、統帥権は政府や議会から独立した天皇の大権とされて来ました。作家の司馬遼太郎さんは、こう書いています。「戦前の日本は、統帥権という政治が口を出すことが出来ない、いわば『魔法の森』に閉じ込められていたようなものだった。明治憲法は三権分立。立法、司法、行政が明快に分かれている憲法だったのに、昭和に入ると次第に統帥権が大きな顔をするようになり、ついには三権の上に立って、憲法を超える万能性まで帯びてきた」。

 

 統帥権は、それまで軍人の世界で論議されることはあっても、政治に公然と介入してくることはありませんでした。ところが、軍部は勝手に火を点けて騒ぎを起こしたり、些細な事件に過ぎなかったものを、この統帥権を盾にして拡大していったのです。満州事変、支那事変がそうでした。司馬さんは、こうも言っています。「憲法上、天皇に統帥や国政の執行権はない。となれば、統帥権の番人である参謀本部の権能は無限に近くなり、どういうことでもやれるようになる。明治の日本が苦労して作った近代国家は、参謀本部を中心とした統帥機関によって殺されたと云っていい」。

 

 ロンドン会議の時の内閣は、民政党の浜口雄幸内閣でした。浜口首相は、日本の財政、国際協調のためにも、この会議を決裂させてはいけないと、強い意志と指導力で軍令部の反対を押し切り、政府の責任でロンドン条約調印に踏み切ったのです。ところが、これに対して「統帥権干犯」という声が、猛然と沸き起こってきました。「干犯」とは、干渉して権利を侵害することです。「天皇から海軍の統帥権を預かっているのは軍令部だ。政府がその軍令部の意向を無視して、軍艦の保有量を決めたのは憲法違反であり、統帥権干犯だ」と、こう言うのです。この「統帥権干犯」という、大変語気の強い、威圧的な感じのする言葉は、やがて二・二六事件で処刑される国家社会主義者の北一輝、日蓮宗信者の北が法華経を唱えていて霊感として浮かんだ言葉なのだそうですが、条約反対の軍人や右翼だけではなく、野党の政友会までが浜口内閣を倒すため、「統帥権干犯」を振りかざして政府を攻撃したのです。

 

 それでも、剛直な浜口首相は一歩も引きませんでした.しかし、ロンドン条約批准に漕ぎ着けたところで、一発の銃弾が浜口を襲いました。昭和五年十月十四日の朝、東京駅のホームで二十一歳の右翼の青年佐郷屋留雄にピストルで撃たれたのです。腹部に重傷を負った浜口は、駆け付けた鉄道病院の医師に、「男子の本懐です」と言ったそうです。「男子の本懐」とは、なすべきことに命を賭けた男の言葉です。どうも最近の政治家は、「果断に」とか「火だるまになっても」とか、決意表明は立派なのですが、言葉だけが空回りしている感じがします。その点、口数の少ない浜口の言葉には重みがありました。事実、ロンドン条約は、浜口がいなければとても成立しなかったでしょう。佐郷屋が懐に入れていた斬奸状には、「統帥権干犯の元凶浜口」と書いてありましたが、取り調べで統帥権のことを聞かれても全く分からず、ちんぷんかんぷんだったそうです。「統帥権干犯」はそれほど、小学校もろくに出ていない若者たちを踊らせる、まさに「魔の言葉」だったのです。そして軍縮の時代、軍服姿では街中を歩けないほど肩身の狭い思いをしてきた軍人たちが、この統帥権を「錦のみ旗」にして、政治に強い発言をするようになっていったのです。

 

 それでは、浜口が命を賭けたロンドン会議とは、一体どんな会議だったのでしょうか。大正十一年のワシントン会議、これは戦艦など主力艦の軍縮会議で、日本はここでも対米七割を要求しましたが、結果はいわゆる「五・五・三」、アメリカ、イギリスの玉に対して日本は三と、六割の比率で決着しました。ただこの時は、巡洋艦など補助艦の協定はフランスの猛烈な反対で決まりませんでした。フランスは日本よりも低い三割五分でしたから、巡洋艦までその比率にされたら、植民地の防衛が出来なくなると言うのです。ですから巡洋艦はいくら造っても勝手、野放しの状態だったわけですが、これでは軍縮の成果が上がりません。そこで昭和二年にジュネーブ会議を開いたのですが、今度は米英の主張が対立しました。「米英対等」を主張するアメリカに対して、イギリスは「自分のところは植民地をいっぱい抱えている。アメリカはハワイとフィリピンだけじゃないか」。こう言って「イギリス優位」を譲らなかったのです。ところが昭和四年の秋、イギリスに労働党のマクドナルド内閣、アメリカに共和党のフーバー大統領と、軍縮を公約に掲げた政権が相次いで誕生したことから、補助艦協定の気運が一気に高まりました。マクドナルドはすぐアメリカに飛んで、「米英対等」を提案しアメリカの同意を取り付けると、日本にも軍縮会議参加を呼びかけてきたのです。

 

 日本では、強硬外交の政友会田中義一内閣が張作霧爆殺事件で総辞職し、民政党の浜口内閣になっていました。浜口は、外務大臣に国際協調主義の幣原喜重郎を起用し、内閣のスローガンも「外に協調、内に軍縮」です。何しろ軍事費が年々膨れ上がり、国家予算の四〇%を上回るほどに財政を圧迫していましたから、浜口も「渡りに舟」とロンドン会議参加を決めたのです。

 

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「ロンドン会議と浜口雄幸内閣」講演録全文
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「ロンドン会議と浜口雄幸内閣」配布資料(メモ)
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「ロンドン会議と浜口雄幸内閣」配布資料(年表)
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