第21回 五・一五事件と犬養毅内閣

 戦後間もない「週刊朝日」に、「問答有用」という徳川夢声の人気対談シリーズがあったのを、ご記憶の方も多いと思います。夢声という人は、話のうまい人でした。戦争中、ラジオから流れてくる「宮本武蔵」の絶妙な語り口。とにかく娯楽というものが全くないのですから、私なんかも勤労動員の軍需工場から帰ってくると、夢中になってラジオにかじりついたものでした。その夢声が時の人、話題の人から軽妙滑脱に面白い話を引き出したのですが、私が鮮烈な印象を覚えたのはこの「問答有用」というタイトルです。戦争が終わって、何でも自由に物が云えるようになった、どんどん話し合おう。そんな新しい時代の到来を、私たちに呼びかけているようでした。そしてそれは同時に、きょうのテーマである五・一五事件。この事件をきっかけに盛んになったファシズム、物を云えなくなった日本に対する怒り、思いのたけを思いっきりぶつけたものだったのです。

 

 昭和七年五月十五日の夕方、海軍青年将校と陸軍士官候補生の一団が永田町の首相官邸を襲撃しました。七十七歳の老首相犬養毅は、「話せばわかる」と一同を制しましたが、「問答無用、撃て!」の一声と共に射殺されたのです。「話せばわかる」は、民主主義の本質と心を最も端的に表現した言葉だと云っていいでしょう。長年政党政治、議会政治に命を賭けてきた犬養の、まさに真骨頂とも云うべき言葉です。それに対して返ってきた「問答無用」は、言論の完全な否定でした。五・一五事件が日本の政治史上、最も重大な意味を持っていると云われるのは、この事件によって戦前の政党政治が事実上終止符を打ち、政党の党首が首相になることは敗戦まで十三年間、二度となかったからです。日本が本格的な「政党内閣の時代」を迎えたのは、つまり総選挙で勝利した第一党の党首が首相になるようになったのは、大正十三年の憲政会加藤高明内閣の時です。明治二十三年に帝国議会が開設されてから、ここまでくるのに三十四年もかかったのに、政党内閣は政友会、民政党の二大政党が交代で政権を担って六代、たった八年で終わってしまいました。そして政治の主役は軍部に代わり、軍部の鼻息をうかがわなければ何も出来ない日本になっていったのです。

 

 政友会の犬養内閣が誕生したのは昭和六年十二月ですが、犬養はなぜ首相就任わずか半年で暗殺されたのでしょうか。海軍将校たちは軍法会議で、「腐敗した政党の総裁として狙っただけで、犬養には個人的な感情はなかった」と云っています。それどころか「清潔な政治家であり、立派な人だと思っていた」とさえ云っているのです。果たして、政党の総裁というだけで暗殺されたのでしょうか。「陸軍や関東軍が進めてきた傀儡国家満州国に、犬養が断固反対したからだ。犬養はそのために殺されたのだ」。こう断言するのは古島一雄です。戦後、首相になったばかりの吉田茂が何でも相談に行く、和服姿の変な老人がいました。私なんかも「何だ、この老人は」と思ったものでしたが、それが古島です。自由党総裁の鳩山一郎が公職追放され、鳩山兄弟のおじいさんですが、後継総裁に推された古島は辞退して吉田を推薦し、吉田のご指南番、後見役に徹したのです。

 

 古島は新聞「日本」で政治記者として活躍し、俳句の正岡子規と一緒に机を並べ、子規が文化部長なら古島は政治部長のようなものです。明治四十四年に無一文、全くお金を使わない文字通りの理想選挙で代議士に当選、犬養に惚れ込んでその右腕となった人です。「大正デモクラシー」 のきっかけとなった大正二年の大正政変も、この古島の一言が大きく動かしたと云えるのかも知れません。陸軍が二個師団増設を強硬に要求して政友会の西園寺公望内閣を倒した時、「憲政擁護、閥族打破」 の声が全国にこだまし、代わったばかりの長州閥桂太郎内閣は五十日余りで崩壊してしまいました。民衆の力が内閣を倒した最初の例ですが、この第一次護憲連動のスローガンも古島が考え出したものなのです。犬養が一番信頼していた古島の言葉だけに、「満州国に反対したから殺されたのだ」という言葉には、大変な重みがあります。

 

 実は陸軍は、最初は犬養内閣を歓迎していたのです。満州事変が始まったのは昭和六年九月十八日ですが、時の民政党若槻礼次郎内閣は「不拡大」の方針でしたし、外務大臣の幣原喜重郎も国際協調第一主義者です。それに対して今度の犬養内閣は、内閣書記官長に森格、陸軍大臣に荒木貞夫中将と、対中国強硬論者が座りました。書記官長は国務大臣ではありませんが、今でいえば官房長官、内閣の大番頭です。しかも「森内閣だ」と云われるくらい、森はやり手で発言力も強く、「満州問題はどんな犠牲を払っても、この際解決してしまわなければならない」。こう公言していましたから、陸軍にとっても好都合でした。荒木もまた国家革新の担い手として、青年将校たちの人気を集めている陸軍期待の星です。前々から「満州事変はあのままでは、仏作って魂入れずだ」と、満州国建国をぶっていましたから、陸軍はこの二人さえいれば、犬養内閣はどうにでもなる、思うように動かせると思っていたのです。

 

 ところが犬養首相は、陸軍が喜ぶほど軍部に協力的ではありませんでした。若槻内閣が総辞職した時、昭和天皇は後継内閣について、元老の西園寺公望に異例ともいえる注文をつけられています。天皇は、陸軍が若槻内閣の「不拡大方針」を次々と破っていることを知っていましたし、それが国際関係に悪影響を与えることを心配されていました。ですから西園寺に 「今日のように、軍部が国政、外交に立ち入って押し通すことは、国家のために憂慮すべきことだ。お前から後継内閥の首班になる者には、この自分の心配を心して十分含ましておいてほしい」と注文されたのです。天皇の意思はファッショのような者は絶対にいけない。国際協調を旨とし、軍部の統制をしっかり確保することでした。

 

 西園寺が後継首相に犬養を推薦したのは、その期待に応えられるのは、犬養しかないと思ったからです。西園寺と犬養の間には、共に薩長の藩閥政治、軍閥に抵抗し、政党政治確立のために戦ってきた、同志としての連帯感があります。若槻は官僚育ちの人で、箱入りの弱さから、肝心のところでぐらつきました。しかし犬養には、少数政党を率いて、逆境の中で鍛えられた筋金入りの気骨があります。昭和天皇は参内した犬養に、「犬養頼む。軍を抑えてくれ。頼む」と云われたそうです。犬養が「身命を賭して」とお答えしたのは、当時三十歳、若き天皇の思いに胸が熱くなったからです。そして満州事変を平和的に解決することで、陸軍を抑えていこうと心に誓ったのです。

 

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「五・一五事件と犬養毅内閣」講演録全文
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