第22回 国際連盟脱退と斎藤実内閣

 昭和六年九月十八日の夜、奉天郊外柳条湖の満鉄爆破で始まった満州事変が、支那事変、太平洋戦争と、日本の「十五年戦争」の扉を開いたとするなら、その日本の運命を「戦争の方向へ」と決定づけることになったのが、これからお話する国際連盟からの脱退です。昭和八年三月、退役海軍大将斎藤実内閣の時でした。五・一五事件で暗殺された犬養毅首相は、陸軍や関東軍が進めてきた傀儡国家満州国の建国には反対でした。そんなことをすれば、日本は国際条約違反で国際世論の袋叩きになる。国際社会から孤立してしまう。そう思った犬養は、満州国が建国宣言をしても、その承認には首を振りませんでした。承認を延ばしている間に、何とか打開策を見付けようとしたのですが、後を継いだ斎藤内閣は四か月後にはあっさり満州国を承認してしまったのです。軍人出身とはいえ、リベラルな考え方で知られ、欧米の政治家にも信頼されていた斎藤です。斎藤はジュネーブ軍縮会議の全権も務め、国際協調、国際連盟の大切さを人一倍よく知っている人でした。その斎藤が、なぜ連盟脱退につながる恐れのある「満州国承認」の道を選んだのでしょうか。

 

 五年ほど前でしたか、NHKで放送した「マッカーサーへの手紙」という番組をご記憶の方もいらっしゃると思います。終戦直後、占領軍最高司令官のマッカーサー元帥に、日本人が五十万通もの手紙を出していたと云うのです。敗戦のショックの中、突然降ってきた民主主義と天皇制との間で揺れた、当時の日本がよく出ている番組でしたが、「天皇を裁判にかけないで下さい」とか、「天皇なしの日本は考えられない」。多くの国民が、こう云った嘆願を必死の思いでマッカーサーにしたのです。アメリカをはじめ戦勝国の間では、昭和天皇をヒットラーやムッソリーニ同様のファシスト、危険人物と看做して、厳罰にしろと云った声が支配的な時でした.マッカーサーがまず天皇の人柄を認めたこともありましたが、アメリカ国内の空気を次第に天皇制存続へと変えていったのは、国務次官をしていたジョセフ・グルーの力が大きかったと云われます。

 

 グルーはこの斎藤内閣の時に駐日大使として来日し、戦争が始まって日米交換船で帰国するまでの十年間、日米関係の改善に努力した人です。帰国したグルーは、こんな講演をしているのです。「天皇制や神道は、軍国主義を助長しているから抹殺すべきだ。こう説く人たちがアメリカにはいるが、軍国主義さえ排除するなら,天皇制も神道も平和日本にとって邪魔者どころか、かえって安寧を助けるものとなろう」。昭和十八年の暮れ、太平洋では日米海軍が死闘を繰り広げている時でした。ニューヨーク・タイムズは社説で、「アメリカ兵がガダルカナルで死に、タラワで傷ついたのは、天皇の国日本、神道の国日本を打ち破るためではなかったのか」。こう書いてグルーを名指しで非難しましたが、グルーは持論を変えようとはしませんでした。実はグルーのこうした日本理解は、斎藤実とその夫人春子から受けた深い感銘が土台になっていたのです。グルーは「滞日十年」という本を書いていますが、その中で内大臣在任中の昭和十一年、二・二六事件で陸軍皇道派の青年将校に暗殺された斎藤について、「愛すべき、穏やかな、魅力的な、礼儀正しい人だが、この国粋主義の荒れ狂う時代でも、幅の広いリベラルな見解を持ち続け、深い知恵を持った人だった」と、人物、見識に最大級の賛辞を贈っています。グルーは二・二六事件の前夜、斎藤夫妻を大使公邸のアメリカ映画観賞会に招待していました。斎藤は大雪の中を帰宅し、数時間後に暗殺されたわけですが、グルーは春子夫人から聞いた事件の模様を詳細に書き残しています。

 

 ただならぬ物音に、夫人が二階の板戸を開けると、抜き身のサーベルを構えた将校と、機関銃、ピストルを持った兵隊たちが立っていました。慌てて板戸を閉めようとしたが間に合わず、斎藤は乱入してきた兵隊に撃たれ、夫人が駆け寄った時はすでに絶命していました。夫人も背中を撃たれましたが、兵隊が斎藤の遺体に向けて機関銃を撃ち出したので、気丈にもその銃身を掴んで、「撃つなら、この私を撃って下さい」と、両手を大きく広げたと云うのです。夫人はさらに左手と右肘を撃たれましたが、翌日弔問に訪れたグルー大使に、こう挨拶したそうです。「夫は今までトーキー映画を見たことがございませんでした。大変楽しかったようでございます。あのような楽しい、最後の一夜を与えて下さいましたことを、主人は必ずや主人に代わって、私に礼を云うように望んでいることと存じます」。グルーは「武士の妻」という言葉を使って、健気な夫人のことを感動を込めて書いています。そして戦争中だからこそ、「日本にもこのような人がいるのだ」と、アメリカ人の偏見の壁を破るため、敢えて筆をとったと云うのです。戟争中に敵国の人間を嘗め、こんな本が出せる。アメリカという国の底の深さといったものに、改めて驚きを感じます。

 

 春子夫人は昭和四十六年、斎藤の故郷・岩手県の水沢で九十八歳の高齢で亡くなりました。雪が降ると、あの忌まわしい夜を思い出すのか、「雪はいやです」が口癖だったそうです。「お世話になりました」と、周りの人へのお礼が最後の言葉だったと云いますが、角膜は夫人の遺言で、岩手県内の十六歳の少年に移植されました。まさに見事な生涯でした。それにしても、グルーから「深い知恵を持っていた」と信頼され、敬愛されていた斎藤が、どうして国際連盟脱退という最悪の道を防ぐことが出来なかったのか。その思いが強く残ります。

 

 昭和七年の五・一五事件で犬養首相が暗殺された後、どんな内閣を作るかは、昭和天皇にとっても、後継首相を推薦する元老の西園寺公望にとっても大問題でした。日本国内はここ一、二年、国内問題、国外問題で騒然としています。束京駅での浜口雄幸首相狙撃事件に始まり、三月事件、十月事件といった陸軍のクーデター計画。血盟団のテロに続いて、今度は現職の総理大臣が首相官邸で海軍青年将校たちに射殺されたのです。国外では満州事変、上海事変が起こり、国際連盟調査団の現地調査も始まっていました。しかも昭和の大恐慌で都会には失業者が溢れ、農村は貧困に喘いでいます。斎藤自身、最初の施政方針演説で「非常時」という言葉を使ったようにへ新聞も非常時ムードを書き立てました。 「いま何時?」と聞かれて、「非常時よ」と答えるのが流行ったそうですが、内憂外患、まさに危機感が充満している時でした。

 

 明治憲法は「大臣輔弼の憲法」といって、天皇の統治権は国務大臣の助言、補佐によって行なわれます。昭和天皇には昭和三年の張作霖爆殺事件で、苦い思いがありました。当時の田中義一首相は、天皇に事件を起こした関東軍高級参謀河本大作大佐らの厳罰を約束したのですが、陸軍の反対で出来ませんでした。天皇から「前と話が連う。辞表を出してはどうか」と咎められ、内閣総辞職をしたことです。イギリス式の立憲君主制、「君臨すれど統治せず」を理想とする西園寺から、「天皇は自分の意見を直接表明すべきではない」。こう諌められた天皇は、この時以来内閣の上奏に対しては、たとえ自分が反対の考えを持っていても、許可することに決心されたと云います。ですからその天皇にとって、自分の考えとはそう違わないよう、間連いなく補佐してくれる内閣を選ぶことが、まず大切だったのです。

 

 昭和天皇は後継首相について、必ず西園寺に注文をつけられています。ファッショのような者は絶対にいけない。外交は国際平和を基礎とし、国際関係の円滑に努めること。この二点ですが、今回はさらに、首相には人格の立派な者であることが強調され、憲法を尊重すること。「そうでなければ、明治天皇に相すまぬ」と云っておられます。いずれも西園寺が「ごもっとも」とうなづくことばかりでしたが、五月二十六日に斎藤内閣が成立するまで、十日間もかかっています。こんな異例とも云える政治空白があったことは、そのまま西園寺の苦悩がいかに深かったかを物潜っています。

 

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「国際連盟脱退と斎藤実内閣」講演録全文
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「国際連盟脱退と斎藤実内閣」配布資料(メモ)
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