第24回 二・二六事件と岡田啓介内閣

 これからお話する二・二六事件は、昭和史で最も重大な事件の一つです。大雪の昭和十一年二月二十六日早朝、陸軍皇道派の青年将校率いる千四百八十三人、完全武装の大部隊が首相官邸や政府要人を襲撃したのです。内大臣斎藤實、大蔵大臣高橋是清、陸軍教育総監の渡辺錠太郎大将、そして首相秘書官の松尾伝蔵予備役陸軍大佐と四人が殺害され、侍従長の鈴木貫太郎が瀕死の重傷を負うと云う日本陸軍始まって以来の大規模な反乱事件でした。襲撃部隊は「昭和維新断行」を旗印に、陸軍省や参謀本部のある三宅坂から、首相官邸、国会議事堂の永田町一帯を占拠しました。「尊皇討奸」と大書したノボリを立て、戦闘態勢を取り続けましたから、交通は完全に遮断され、日本の政治、経済の中枢は全くのマヒ状態です。新聞もラジオも陸軍省発表以外は何も書けず喋れずで、二十九日に反乱が鎮圧されるまで、まさに日本を震憾させた四日間でした。

 

 「何か大変なことが起こっている」。誰もがそう感じながら、国民がある程度事件を知ることが出来たのは、発生から十四時間も経った夜の七時です。ラジオが「東京に戦時警備発令」と、戦争状態を意味する東京警備司令部発表を放送したのです。そして陸軍省が初めて事件の概要を発表したのは、夜八時十五分になってからでした。しかし、これほど陸軍上層部の混乱と、その無能ぶりをさらけ出した発表もなかったのです。反乱軍は秘書官の松尾大佐を岡田啓介首相だと思い込んでいましたから、「岡田首相即死」と発表したのは仕方がないとしても、反乱を反乱と断定出来ず、反乱軍を呼ぶのに「噺起部隊」です。しかも「噺起趣意書によれば」と断ってはいますが、「これら将校の聯起せる目的は」と、「内外重大危急の際、元老、重臣、財閥、軍閥、官僚ら国体被壊の元凶を取り除き、以て大義を正し、国体を擁護せんとするにあり」。これではまるで、殺された人たちが日本の国を壊す悪者で、陸軍省が反乱軍の宣伝をしているようなものでした。

 

 この「願起部隊」の呼び名は、やがて世間を騒がす「騒擾部隊」に変わり、最後にやっと「叛乱筆」とされましたが、それは昭和天皇が終始一貫、「反乱軍を鎮圧せよ」と、厳然たる姿勢を取り続けたからなのです。立憲君主国としての日本の運命は、まさに天皇一人の双肩にかかっていた感じがしますが、問題は鎮圧した後でした。二・二六事件は、皇道派、統制派という陸軍の派閥抗争が、その頂点に達して爆発したものです。ですから、まずこんな不祥事を起こした陸軍に軍紀粛正、粛軍を徹底させる。軍部の政治介入をやめさせ、立憲政治の秩序を確立する。その絶好のチャンスだったし、また最後のチャンスでもあったのです。ところが実際は、全く逆の結果になってしまいました。統制派の幕僚グループはこの事件を利用して、彼らが考えていた戦争本位の国家体制を作り上げていったのです。軍部独裁の踏み台を作ったと云う点で、統制派のクーデターを利用した逆クーデターだったのではなかったのか。私はこれが、この事件の最大のポイントだったと思います。そして支那事変から太平洋戦争と、戦争につながっていったのですから、二・二六軍件がもたらした影響は、測り知れないほど大きかったと云っていいでしょう。

 

 反乱軍の中心は、東京第一師団の歩兵第一連隊と第三連隊、そして近衛師団の近衛歩兵第三連隊です。二月二十六日を決行日としたのは、皇道派青年将校の拠点である第一師団の「三月満州派遣」が決まったからでした。満州へ行ってしまえば皇道派は四分五裂となり、彼らのやろうとしていた国家革新運動も雲散霧消してしまいます。それに二十六日は、第一連隊で山口一太郎大尉、第三連隊で安藤輝三大尉と、皇道派将校が週番司令に当たっていました。週番司令と云うのは、「夜の連隊長」と云われるくらい夜の連隊では大きな権限を握っていましたから、大部隊を動かすには絶好だったのです。

 

 首相官邸を襲撃したのは、第一連隊の栗原安秀中尉以下三百人です。クーデターはまず、弾薬庫を開けさせることから始まりました。栗原中尉が連隊本部の兵器係軍曹にピストルを突き付けて、営門の衛兵司令の所へ連行し弾薬庫の鍵を出させたのです。大雪の残る営庭に、兵隊を集合させたのが午前三時半。栗原は僻起趣意書を読み上げ、「これから昭和維新を断行し、首相官邸を襲撃する。我々に一命を預けろ」と訓示したそうです。兵隊たちは寝呆け眼の上、何やら難しい漢文調です。まあ「皇謨を一空せん」なんて、活字を見たって何のことかよく分かりませんが、皇室の将来を台無しにすると云うことでしょうか。兵隊たちは分からないなりに、直属上官の命令だから云われるままに従った。白い布を十文字にタスキがげにした将校たちに、何かだならぬものを感じたと云っています。よく映画などに降りしきる雪の中を出撃する場面がありますが、あれはどうも間違いのようで,出撃の時は降っていません。二十五㌢も積もった二十三日の大雪が残っていたのであって、気象台の記録によると雪がまた降り出したのは明るくなってから、午前八時半頃だったそうです。

 

 首相官邸では五・一五事件で犬養毅首相が暗殺されてから、万一に備えて非常ベルを取り付け、裏庭には脱出用の抜け道が作ってありました。最初の十五分間は官邸護衛の警官で防ぎ、十五分後に警視庁の応援隊、三十分後には麻布の第三連隊が出動する。こういう手筈になっていたのですが、その軍隊が襲撃してきたのですから話になりません。駆け付けた警視庁の応援隊も、反乱軍から重機関銃七挺、軽機関銃四挺を突き付けられては、どうすることも出来ずに引き返しました。この間、官邸護衛の警官は実に勇敢に戦い、殉職した四人は全員がビストルの弾を全弾撃ち尽くしていたそうです。新聞にこのことが出ると、オカッパの少女が「お正月の小遣いを貯めておいたものです」と云って、下町の交番に五十銭を置いていきました。警視庁にはこうした献金が二十万円も集まったと云われますが、これも「職務に忠実な罪のない人まで殺した」、軍部横暴に対する無言の抗議だったのでしょう。

 

 秘書官の松尾大佐は岡田首相の妹のご主人ですが、岡田を抜け道へ連れ出そうとして、庭に出たところを撃たれました。そんなに似ていないのだそうですが、寝室の欄間にかけてあった岡田の写真が、ちょうど顔の部分に銃弾が当たってヒビ割れてしまい、見比べてもはっきりしません。年格好が近いので、岡田に違いないと思い込んだようです。岡田は二人の女中さんの手で女中部屋の押入に匿われたのですが、駆け付けた憲兵に見つかってしまいました。憲兵がびっくりして麹町憲兵分隊長に報告すると、「陛下の信任の厚い首相だし、人命救助は憲兵の任務だ」。こう云って、小坂慶助憲兵曹長に「絶対救出しろ」と命じたと云うのです。分別のある、立派な憲兵分隊長でした。軍閥と云うと、何か当時の陸軍将校がみんな派閥抗争に明け暮れしていた。こう思われるかも知れませんが、実際は九割以上の将校は、こうした派閥には緑もゆかりもなく、忠実に職務に励んでいたのです。極めて少数の、それも陸軍大学校出とか青年将校が、何派だ、何閥だと云って騒ぎ回り、軍の秩序を乱し、軍紀を退廃させていったのです。上は軍政を握る高級幹部、それを突き上げる中堅幕僚、それに扇動された青年将校。この一団こそが昭和軍閥だと云っていいのでしょう。

 

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「二・二六事件と岡田啓介内閣」講演録全文
*落丁がありましたので、差し替えました(2012年9月22日)
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「二・二六事件と岡田啓介内閣」配布資料(メモ)
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