第25回 二・二六事件と広田弘毅内閣

 戦前のことは余り知らないのに、二・二六事件だけはよく知っている。こんな若者が結構多いんだそうですが、それほど先月ときょうの二回にわたってお話する二・二六事件は衝撃的な事件だったのです。大雪の昭和十一年二月二十六日早朝、陸軍皇道派の青年将校率いる千四百八十三人、完全武装の大部隊が首相官邸や政府要人を襲撃し、内大臣斎藤實や大蔵大臣高橋是清ら四人を殺害しました。反乱軍は陸軍省や参謀本部のある三宅坂から、首相官邸、国会議事堂のある永田町一帯を占拠し、戦闘態勢を取り続けましたから、日本の政治経済の中枢は全くのマヒ状態です。反乱は四日目の二十九日になってやっと鎮圧されましたが、二・二六事件が戦前の昭和史で「最も重大な事件」と云われるのは、日本陸軍始まって以来という反乱の規模の大きさもありますが、それ以上に、この事件が支那事変、太平洋戦争と、戦争への道を開いてしまったことです。

 

 二・二六事件は、国家改造を掲げて反体制的な動きを強めていった青年将校運動、それを擁護する皇道派、これに対して組織の結束力を重視し、漸進的に改革をやって行こうとする統制派。その派閥抗争、権力闘争が頂点に連して爆発したものです。ですから、まずこんな不祥事を起こした陸軍に軍紀粛正、粛軍を徹底させる.軍部の政治介入をやめさせ、立憲政治の秩序を確立する。その絶好のチャンスだったし、また後になって考えれば最後のチャンスでもあったのです。ところが実際は、全く逆の結果になってしまいました。

 確かに、この事件によって青年将校運動は実質的に消滅しました。反乱将校たちは「弁護人なし、一審制」という即決裁判によって大部分が銃殺刑になり、地方にいて事件とは直接関係のなかった将校までが、反乱を支援したという名目で有罪にされました。皇道派の将軍たちも、その後の粛軍人事によって陸軍の表舞台から退場しました。皇道派の勢力が壊滅すれば、それに対抗する形で形成された統制派も存在の意味をなくします。陸軍の陰惨な派閥抗争は、こうしてやっと終わりを告げたのですが、だからといって、陸軍の政治介入はなくなりはしなかったのです。それどころか、陸軍はこの粛軍を利用して、かえって政治的な発言力を強め、準戦時体制とも云うべき国防国家体制を作り上げていったのです。なぜそうなったのか。きょうは、この事件で総辞職した岡田啓介内閣の後を受けて、首相になった広田弘毅を中心に話してみたいと思います。

 

 反乱鎮圧後、真っ先に急がなければならないのが、混乱を処理すべき後継内閣の組織でした。東京日日新聞、現在の毎日新聞は三月1日付の社説で、「禍い転じて福と為すの一大決心を要す」と題して、こう書いています。「今後の政局をいかに収拾するか。真の挙国一致内閣であらねばならぬ。あくまでも立憲政治の大道を進む、信念と勇気の持ち主たるを要する」。そして「こんな非常手段で国家の政治を変えようとした者が、皇軍の中から出たのは、まさに重要な軍職にある者の責任であり、粛軍第一は国民の声である」と訴えたのです。どの新聞も同じような論調でしたが、侍従武官長の本庄繁大将は三月四日の日記に、昭和天皇怒りの言葉を記録しています。「自分としては、最も信頼せる股肱たる重臣および大将を殺害し、自分を真綿にて首を絞むるが如く、苦悩せしむるものにして、甚だ遺憾に堪えず。而してその行為たるや、憲法に遠い、明治天皇のご勅諭にも惇り、国体を汚し、その明徴を傷つくるものにして、深くこれを憂慮す」。そして「この際、十分に粛軍の実を挙げ、再びかかる失態なきようにせざるぺからず」。これが終始一貫、「反乱軍を鎮圧せよ」と厳然たる姿勢を取り統けた天皇の気持ちでしたが、後継首相の選考は難航したのです。

 

 元老の西園寺公望は、こんな二・二六事件の後でなければ、岡田の次は朝鮮総督の宇垣一成陸軍大将を考えていたようです。皇道派・統制派の陸軍の派閥抗争が「コップの中の争い」ではすまずに、次々と政治、外交に横槍を入れてきます。西園寺は「どうも陸軍の中心が、どこにあるのか分からない。各種各所に中堅があるが、軍全体の中心がほとんどないような状態になっている」。こう云って、陸軍首脳部に統制力がないことを嘆いていました。岡田啓介も首相時代、陸軍大臣の林銑十郎が「どうにも頼りなかった」と云っています。林は満州事変の時の朝鮮軍司令官で、満州へ独断出兵して「越境将軍」ともてはやされた髭の将軍ですが、「無定見の見本」みたいな軍人でした。閣議で一度は了解しておきながら、陸軍省に戻って部下から反対されると、「あれはなかったことにしてくれ」と簡単に引っ繰り返します。最後は閣議で発言する時は、部下から予め渡されていたメモを読みながら、話すようになったそうです。陸軍大学校出の中堅幕僚が、陸軍を動かす時代になっていたのです。

 

 こうした陸軍の横暴を押さえ、統制を回復するには、「毒を以て毒を制す」。字垣は陸軍大臣時代、「三月事件」と云われる陸軍のクーデター計画に担がれたことがあり、西園寺も疑念は抱いてはいました。それでも宇垣の見識、統率力についてはやはり「人物だ」と買っていましたから、ショック療法を考えていたのです。しかし反乱将校たちが「宇垣即時逮捕」を要求し、反乱は鎮圧されたとはいえ、陸軍部内に依然として「彼らを犬死にに終わらせるな」。こんな気炎をあげている将校が多い以上、字垣は断念するしかありません。西園寺に残された札は、「若きプリンス」として国民的な人気の高い、公爵の近衛文麿しかなくなりました。近衛は当時四十四歳。軍部や政界、財界にも受けがよく、西園寺自身も、自分の後継者にする積もりで育ててきた最後の切札です。ただ西園寺は、近衛についても前々から皇道派の将軍荒木貞夫や其崎甚三郎と親しく、右がかった言動を苦々しく思っていましたから、首相にするにはもっと経綸を積んでから。これが西園寺の本心でしたが、一日も早く新内閣を作って、人心を安定させるのが急務である以上、そんなことを云っている余裕はありません。

 

 三月四日、近衛を呼ぶと首相就任を求めたのです。近衛は健康を理由に断りましたが、西園寺は「こういう際だ。自分は信念によって奉答する」と高飛車に云って近衛を推薦しました。昭和天皇も近衛に組閣を命ずる際、「是非とも」と付け加えられたと云いますが、近衛の決心は変わりませんでした。一旦退出した後、再び拝謁して「元来病弱の身、重責に当たることが出来ません」と組閣の大命を拝辞したのです。極めて異例なことでしたが、近衛はなぜ断ったのでしょうか。親しくしていた皇道派の旗色が悉く、陸軍をどうしたらよいか、成算がありません。首相になれば当然、其崎の処分問題も出てきます。皇道派と統制派の争いに巻き込まれるのを恐れて、逃げたのです。近衛と親しい内大臣秘書官長の木戸幸一、戦争中の内大臣木戸に云わせると、「近衛という男は、消極的なことには非常に強い男だ.こういう時にはテコでも動かない」。木戸は「まあ近衛も、怖いことはお断わりと患ったんだろうね」と云っています。

 

 新内閣のメドが全く立たず、暗澹たる気分が漂い出したところへ、突然出てきたのが外務大臣広田弘毅の名前です。重臣たちが宮内省の食堂で黙々と夕食をとっている時、「広田さんはどうだろうか」と切り出したのが枢密院議長の一木喜徳郎でした。広田は下馬評にも全く上がっていませんでしたから、このため後で「ヒロッタ内閣」などと陰口されるのですが、誠実な人柄で外務省での人望が高いことは皆よく知っていました。国際関係に明るいし、ソ連大使もやっていて、ソ連との関係もうまくやっていける。青年将校たちは盛んに対ソ軍備の強化を訴えていましたから、そうした危機意識にも応えることが出来ると云うのです。木戸が西園寺に連絡をとると、「それも一案だが、広田が引き受けるだろうか」と云います。近衛は自分が辞退した責任もあって、広田説得に熱意を見せ、広田と外務省同期の吉田茂、戦後首相になる吉田を使者に立てたのです。

 

 深夜、思いもかけない用件を聞いた広田は、「自分は内政で腕を揮った経験もないし、外交官として一生を終わる積もりでいる。それに政治的なことは得意でない」と断りました。翌日の五目、近衛の屋敷に広田を呼んで再度説得しているところへ、西園寺から何度も電話がかかってきます。電話に出た吉田が「誰か、背広を着たヤツがいいと云うんだな。軍人や、軍人に類するヤツはダメだと云うんだ」。この元老の意向を伝えた時、広田の決意は決まったようです。

 

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「二・二六事件と広田弘毅内閣」講演録全文
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