第26回 支那事変と近衛文麿内閣

 きょうは、昭和十二年七月七日の七夕の夜、北京郊外盧溝橋で発生した発砲事件、結局はこの発砲が支那事変、さらには太平洋戦争へとつながっていくわけですが、その盧溝橋事件を中心に話してみたいと思います。盧溝橋と云うのは、北京の西側を永定河が流れていますが、そこにかかる全長三百五十㍍の大理石の橋です。金の時代、二九二年に造られ、欄干百四十個の狛獅子が一つ一つ形が変わっている珍しい橋で、マルコ・ポーロが「東方見聞録」に「世界で一番美しい橋と思う」と紹介したことから、「マルコポーロ・ブリッジ」の名前でも知られています。橋の東側には、十七世紀半ば、明の時代に宛平県城が築かれ、二千人の住民のほか中国第二十九軍の軍隊が駐屯していました。ここから眺める月が素晴らしいと云うので、橋のたもとには清の乾隆帝直筆の「盧溝暁月」の石碑が建っており、盧溝橋事件はこの歴史的名所で勃発したのです。

 

 日本陸軍一個中隊百三十五人が夜間演習をしている時、突然銃撃されたのですが、全部で十八発だったと云われています。誰が発砲したのか、計画的な、謀略的なものだったのか、それとも偶発的なものだったのか。真相は六十七年経った今も依然として謎のままですが、いずれにせよこの発砲で死者が出たわけではなし、出先の軍隊の些細なトラブルでした。時の内閣は、国民期待の中で誕生した「若きプリンス」、四十六歳の公爵近衛文麿内閣です。日本政府は不拡大の方針でしたし、現地では間もなく停戦協定も結ばれました。当事者さえ本気になって解決を図ろうとすれば、解決出来ないような事件ではなかったのです。

 

 それがどうして、支那事変にまで発展してしまったのか。日本陸軍の中にもこの発砲事件を口実にして中国北部、華北の権益を広げようとする拡大派がいました。中国側にも、一挙に抗日民族統一戦線結成へ持っていこうとする共産勢力の策動がありました。しかしこの盧溝橋事件が不幸だったのは、ちょっとした行き違いが次々と重なり、それがお互いの不信感を増幅して、ついには八年間にわたる日中全面戦争突入の引き金になってしまったことです。この事件を属地事件で処理していたら、恐らく太平洋戦争はなかったでしょう。盧溝橋の銃声が日本を破滅に導く運命の一発になったのですから、まさに「恨みは探し盧溝橋」でした。

 

 北京南西四㌔の豊台には支那駐屯軍歩兵第一連隊の第三大隊が駐屯していましたが、その第八中隊が夜間演習のため盧溝橋に着いたのは七日の夕方でした。中隊長の清水節郎大尉は、何かいやな予感がしたそうです。二十日ほど前に演習した時には何もなかったのに、川の水神様を祭った龍王廟付近の堤防に敵兵濠が見え、二百人ほどの第二十九軍の兵隊が何やら工事をしています。清水は、部下に中国兵を刺激しないよう注意した後、夜七時半から払暁攻撃のための陣地構築演習に入りました。十時半頃、「仮設敵」と云って、敵軍に想定した部隊に休憩をとらせるため伝令を出したのですが、この伝令を演習部隊の接近と勘違いした仮設敵が、軽機関銃を空砲射撃してしまったのです。すると突然、堤防の方から数発の実弾が飛んできました。清水は直ちに演習を中止し、集合ラッパを吹かせましたが、今度は鉄橋付近から十数発の実弾射撃を受けたのです。宛平県城の城壁と堤防上に、懐中電灯らしい光が点滅していたと云います。

 

 ここに第一の不幸な偶然が重なりました。伝令に出した二等兵が道に迷って、行方不明になったのです。初年兵で、用便中にはぐれたんだと云う説もありますが、清水大尉は冷静に一発の応射もさせずに、とにかく上官の判断を仰ごうと、豊台の大隊長一木清直少佐に伝令を出しました。ところが一木も、一木から電話報告を受けた北京城内の連隊長牟田口廉也大佐も、この兵隊不明の方を重大事と取ってしまったのです。牟田口は一木少佐に「現地急行」を命じると共に、第二十九軍に使者を派遣して、兵隊捜索のため宛平県城の立ち入り検査を要求させました。行方不明の兵隊は二十分後には部隊に戻っていたのですが、清水大尉の方は眼前の中国軍との緊張に全神経を集中させています。一木少佐と合流してからも、その「兵隊無事」の報告を午前二時過ぎまで忘れてしまったのです。日本側の立ち入り検査の要求は続き、反発を強めた中国側は頑強に拒否しました。この行方不明事件がなかったら、立ち入り検査の要求はなかったでしょうし、その後の交渉がもつれることもなかったでしょう。

 

 ガダルカナル、インパールの話を聞かれた方は、牟田口、一木の名前ですぐ思い出されることと思います。牟田口は「悲劇のインパール作戦」の軍司令官で、昭和十九年三月、補給というものを全く考えない無茶な作戦でインドに攻め込み、戦死三万、戦傷、戦病者五万人と云う悲惨な犠牲を出しました。一木の方はミッドウェー島攻略に当たる予定だったのですが、ミッドウェー海戦の大敗で取り止めになり待機しているところへ、十七年八月、米軍がガダルカナルに上陸してきました。一木大佐以下九百人余りの一木支隊は急遽ガダルカナルに向かいましたが、飛行場へ銃剣突撃して八百人が戦死、一木もピストルで自決しました。まだ日本が勝っていて、米軍の火力の恐ろしさを知らない頃でしたが、これも無茶としか言い様のない作戦です。理性派と云うよりは、豪将タイプのこの二人が現地の責任者だったことも、盧溝橋事件を大きくする一因になりました。

 

 一木大隊が盧溝橋に布陣を終わり夜明けを待っていたところ、午前三時二十五分頃また三発ずつ二回撃たれたのです。牟田口は抗議の使者を派遣する時、「あくまで不拡大方針で臨む。向こうの弁解はこじつけであっても聞いてやれ」。こう云っていたのですが、二回の射撃にカッとなったのか、一木の「断乎攻撃すべきだと思います」の意見具申に、午前四時二十分「戦闘開始」を命令したのです。日本軍は龍王廟を占領し宛平県城を砲撃しましたが、十一日夜に停戦協定が成立するまで戦死十一人、負傷三十六人、中国側も約百人の死傷者を出しました。牟田口は「事件を最小限に食い止めるには、この際一喝を食らわすことが賢明だと思った」と云っていますが、発砲で死者が出たわけではなし、交渉中に戦闘命令を出すあたり、あの頃の軍人特有の一撃論、「なあに中国軍は弱い。一撃すれば簡単に参るだろう」。この思い込みがあったのでしょう。

 

 十七年前に亡くなられた高松宮には、海軍兵学校在学中の大正十年から書き続けた二十冊の「高松宮日記」があります。その中で当時三十二歳、海軍少佐だった高松宮が、実に的確にこの盧溝橋事件の問題点を指摘しているのです。高松宮がまず第一に望んだのが、日本側の冷静な対応でした。「時局不拡大の方針というそばから、日本の新聞が参謀本部で徹夜しているとか、やれ何のと、上ずった宣伝をしているのは逆効果になる」。新聞の過剰な反応を心配していますが、例えば八日朝の読売新聞号外は、見出しが「支那軍不法射撃、日本軍も応戦す」。どの新聞ももう第一報の段階から、陸軍の発表のままに中国軍隊の発砲だと決め付けているのです。満鉄爆破の謀略で始まった満州事変の時と同じでした。そして今度もまた「暴支鷹懲」、「乱暴な支那を懲らしめよ」と、国民世論を中国打倒に煽り立てる結果になったのです。

 

 高松宮は事件の背景にも鋭く目を向けています。「発砲は支那が先か知らないが、発砲させるような演習をすることに十二分の欠点がある。支那の兵営に突撃の教練をしたり、内地と同様に演習をしたりするのは不謹慎だ」と云うのです。北京は当時北平と云っていました。蒋介石が昭和三年に北伐と云って、北方軍閥を追い払って北京に入城した時、国民政府の首都は南京でしたから、一つの国に二つの都があるのはよくないと、北伐平定にちなんで北平と改名したのです。ですから盧溝橋で演習をすると云うのは、日本で云えば古都京都の鴨川で演習するようなものなのです。しかも中国軍隊の目と鼻の先で、我が物顔の演習をしたのですから、反日感情を煽ることにもなり、ここに最大の問題点があったと云ってもいいでしょう。

 

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