第27回 泥沼化する支那事変

 きょうは、昭和十二年七月七日の七夕の夜、北京郊外盧溝橋で発生した発砲事件、この盧溝橋事件が、なぜ八年間にわたる日中全面戦争にまで発展してしまったのか。 「泥沼化する支那事変」というテーマで話してみたいと思います。元はと云えは、出先の軍隊の些細なトラブルでした。日本陸軍一個中隊が夜間演習をしている時、突然十八発ほど銃撃されたのですが、誰が発砲したのか。日本軍、あるいは中国軍、または共産軍の計画的な謀略的なものだったのか、それとも偶発的なものだったのか。真相は六十七年経った今も依然として謎のままですが、いずれにしろ発砲で死者が出たわけではなし、現地では間もなく停戦協定が結ばれました。時の内閣、近衛文麿内閣も 「現地解決、不拡大」 の方針でしたし、当事者さえその気になって解決しようとさえすれば、解決出来ないような事件ではなかったのです。ところが現地でトラブルが続くと、日本は内地から三個師団の派遣を決定、二十八日からの総攻撃で北京・天津地区を占領してしまいました。

 

 陸軍は拡大派と不拡大派に割れていました。この機会に中国北部、華北の権益を広げようとする拡大派。これに対して参謀本部作戦部長の石原莞爾少将は、武力行使が泥沼の長期戦につながることを恐れていました。「ひとたび日中抗争に陥れば、果てしない荒野に無限の進撃命令を出すようなものだ」と云うのです。石原は、日本軍を満州国境の万里長城の線まで下げる。近衛首相が飛行機で南京に飛び、国民政府主席蒋介石とのトップ会談で一挙に解決を図る。思い切った提案をしたのですが、近衛は動きませんでした。たとえ話を纏めても、果たして陸軍がその条件を呑むかどうか。ハシゴを外されたら、徒に恥をかくだけだとためらったのです。近衛が国民の圧倒的な人気をバックに、リーダーシップを発揮していたら、盧溝橋事件は恐らくこの時解決していたでしょう。

 

 華北での全面攻撃で、事態はまさに拡大派の望んでいた方向で展開したわけですが、拡大派にしても全面戦争を望んでいたわけではありません。「なあに中国軍は弱い。日本の一個連隊は向こうの十一個師団に相当する。二、三個師団送ってガーンと一発食らわせれば、蒋介石は頭を下げるだろう」。楽観的な一撃論でしたから、内地師団派遣の際の命令でも、戦場は華北に限定し、「迅速なる一撃により敵の戦争意志をくじき、かえって全面戦争を避けることが出来る」と期待していたのです。陸軍大臣の杉山元も昭和天皇に、「支那は一か月で片付けてご覧にいれます」 と上奏していたくらいでした。

 

 しかし、これは中国の抗戦力を余りにも低く見た、安易な情勢判断だったのではないでしょうか。抗日気運は中国全土を覆っていましたし、中でも中国最大の工業都市上海は、学生、労働者を中心とした抗日運動の拠点でした。日本政府も不穏な情勢に、揚子江沿岸の在留邦人二万九千人に上海引き揚げを命じ、八月九日には引き揚げを完了したのですが、その日の夕方「大山事件」が起きてしまったのです。海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が自動車で上海市内を視察中、運転手と共に中国保安隊に射殺され、これが全面戦争の引き金になりました。当時、北京、天津など華北は陸軍の担当、上海など華中は、砲艦で揚子江沿岸の居留民を守る関係から海軍の担当でした。海軍は陸戦隊を四千人に増強しましたが、五万の中国軍に包囲され、上海は一触即発の状態になったのです。十日の閣議で海軍大臣の米内光政は杉山陸相に陸軍部隊の動員準備を要請しましたが、石原作戦部長は「華北以外に出兵すれば全面戦争になる」と反対です。石原は「上海が危険なら、居留民を全部引き揚げさせたらいい。損害は一億でも二億でも補償しろ。その方が安くつく」。強硬に主張しましたが、結局は閣議で約束してしまった杉山の面子を考え、上海から先には軍を進めない。これを条件に、居留民保護のための必要最小限の兵力として、二個師団の上海派遣に同意したのです。

 

 どうだったのでしょうか。盧溝橋事件が勃発した時、陸軍派兵に最後まで反対したのは米内海相でした。事件が拡大し、上海など華中に飛び火するのを恐れたのですが、その上海に派兵してしまえば、全面戦争になるのは火を見るより明らかなのです。米内はこの後、日独伊三国同盟に反対し、終戦の時も海軍大臣として和平に尽力した良識派の軍人です。見識といい、信念といい、私は実に立派な軍人だったと思いますが、「この上海派兵によって、全面戦争に拡大させた責任は大きい」と、米内の責任を指摘する人もいます。石原は「海軍はずるい。陸軍が強盗なら海軍は巾着きりだ」と怒ったそうですが、海軍は自分に関係ない時だけ「いい子になって」と云う意味です。しかし不拡大派だったその石原にしても、華北への内地師団動員に踏み切ったのは、「手薄のまま、万一包囲全滅させられたら」―この軍人の本能のせいでした。陸軍には陸軍の面目があったように、米内にしてもやはり海軍の面目があったのでしょう。

 

 上海では十三日の夕方、中国軍が陸戦隊陣地を攻撃し、本格的な交戦状態に突入しました。閣議もこの目、陸軍派兵を承認、翌日深夜の臨時閣議で「帝国政府声明」を決定し、十五日朝発表したのです。日本はそれからちょうど十五年後に敗戦の運命を迎えるわけですが、「隠忍その限度に達し、支那軍の暴戻を膚懲し、南京政府に反省を促すため、断乎たる措置を取るの巳むなきに至れり」。こう云うもので、これまでの「現地解決・不拡大」方針を捨て、全面的な軍事行動に転ずることを明らかにした、実質的には宣戦布告を意味するものでした。それを裏付けるように、十四日、中国軍機が第三艦隊の旗艦出雲を爆撃すると、海軍航空隊は長崎県の大村や台北の基地から飛び立って抗州、十五日には南京などの空軍基地を爆撃したのです。東シナ海の洋上、片道1千㌔の渡洋爆撃は世界でも初めてのことで、新聞には「勇猛果敢な荒鷲」の見出しが躍りましたが、航空部隊のことを「荒鷲」と云うようになったのも、この時からです。

 

 国民政府も八月十四日、「抗日自衛宣言」をして全国動員令を発令しました。抗日統一戦線結成を目指す国民党と共産党の「国共合作」も、共産軍を国民革命軍に編入して第八路軍とすることで具体的に働き出しました。日本はこの「国共合作」の意味を、どの程度正確に理解していたのでしょうか。日本は中国に対する和平条件では、必ずと云っていいはど日中共同して共産主義を防ごうと、「共同防共」を申し入れています。それほど共産主義思想やその指導勢力には脅威を感じていたのに、中国共産党の持つ可能性となると余り強い警戒感は持たなかったようです。蒋介石との戦争継続が、まさか共産勢力を巻き込んだ民族戦争になるとは、思いもしなかったのです。これも中国認識がお粗未だったからでしょう。

 

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「泥沼化する支那事変」講演録全文
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「泥沼化する支那事変」配布資料(メモ)
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「泥沼化する支那事変」配布資料(年表)
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