第29回 第二次世界大戦と日本

 二十一世紀を前にして、「失われた十年」ということが盛んに云われました。日本は、二十世紀最後の十年をバブル経済の破綻処理に追われ、改革が不十分なまま新しい世紀を迎えてしまった。こう云うのですが、昭和六年の満州事変から十六年の太平洋戦争開戦までが、ちょうど十年でした。まさに「破滅的戦争に走り出した十年」だったわけですが、それじゃ防ぐチャンスがなかったのかと云うと、いくらでもありました。

 まず昭和十一年の二・二六事件です。こんな反乱を起こした陸軍に軍紀粛正を徹底させ、政治から手を引かせる。政治が力を取り戻す絶好のチャンスだったでしょう。ところが首相になった広田弘毅は、組閣の段階から閣僚人事に横槍を入れられ、ほとんど陸軍のロボット内閣とも云うべき存在になってしまいました。「陸軍を持つ国」ではなく、「陸軍の持つ国」になってしまったのです。

 次が十二年七月七日の慮溝橋の発砲事件から始まった支那事変です。近衛文麿首相がリーダーシップを発揮して現地解決をしていたら、恐らく太平洋戦争はなかったでしょう。当時参謀本部作戦部長だった石原莞爾少将は、「広大な国土、膨大な人口を持つ中国とひとたび日中抗争に陥れば、果てしない荒野に無限の進撃命令を出すようなものだ」。こう云って、いち早く泥沼化の危険性を指摘していましたが、陸軍の大勢は「なあに中国軍は弱い。二、三個師団送ってガーンと一撃食らわせれば、蒋介石は頭を下げるだろう」と、楽観的な一撃論でした。支那事変は石原が心配した通りになったわけですが、チャンコロ、チャンコロと云った中国蔑視、日本の大国意識は陸軍だけではなく近衛にもあったし、一般国民にもありました。これが何度かあった話し合い解決の足を引っ張ることになったのです。

 そして、いわば最後のチャンスが、これからお話する第二次世界大戦の勃発だったと思います。日本はその直前の昭和十四年八月二十三日、独ソ不可侵条約という激震に襲われていました。ドイツの申し入れで、陸軍が従来の日独防共協定を強化して日独伊三国同盟を結ぼうと、躍起になっている時でした。海軍と外務省が強硬に反対したのは、この同盟がソ連だけではなくイギリス、フランスも対象に入れ、一国が戦争になれば即時参戦を義務付けた軍事同盟だったからです。陸軍大臣の板垣征四郎が陸相辞職の脅しで、何とか同盟を結ばせようと平沼駿一郎首相に粘っている時、この独ソ不可侵条約の衝撃のニュースが飛び込んできたのです。とにかく共産主義を防ごうと云うのに、肝心要のドイツがソ連と握手してしまったものですから、防共協定そのものが全く無意味なものになってしまいました。しかもドイツの行為は、「相互の同意なくして、ソ連との間に一切の政治協定を結ばない」。この約束に違反する重大な裏切りなのです。一切はご破算となり、平沼内閣は八月二十八日、「欧州の天地は複雑怪奇である」との有名な声明を発表して総辞職しました。

 満蒙国境ノモンハンでは、日本陸軍がソ連軍の火力、戦車に圧倒され、記録的な大敗をしていた時です。しかも陸軍は、自分たちが進めてきた三国同盟に失敗したのです。普通ならシュンとなって、後継内閣に口を出すところではないのですが、そこが日本陸軍の違うところです。陸軍大臣の板垣は早速近衛を訪ね、陸軍の希望する内閣作りに動き出しました。東亜新秩序建設には、ドイツとの親善関係は従来通り維持し、イギリス、ソ連が不倶戴天の敵であると云う決意に、変化があってはならないと云うのです。近衛が「陸軍の意中の人物は誰か」と聞くと、予備役陸軍大将の林銑十郎か阿部信行だと云います。林は「何もせんじゅうろう内閣」と云われたくらい無為無策、四か月の短命に終わった元首相。阿部は宇垣一成が陸軍大臣の時に次官を勤めたくらいで、閣僚経験もなく無名の将軍でした。ただ昭和天皇は、阿部から軍事学の講義を受けたことがあり、その時の印象が良かったのでしょう。陸軍が強く推薦していると聞くと、阿部にやらせてみようと思われたのです。天皇は、適当な陸軍大臣を出して陸軍の粛正をしなければ、内政も外交もダメになると強く感じておられました。「阿部なら陸軍も協力するだろうし、陸軍のこともよくわかっているから、一つやらせてみよう」となったのです。

 天皇は阿部に組閣を命ずる際、厳然たる口調で異例とも云える指示をされています。第一に、英米とは協調しなくてはならぬこと。第二に、陸軍大臣は自分が指名する。畑俊六か梅津美治郎のうち、どちらかを選任せよ。第三に、内務、司法大臣は治安の関係があるから、選任に注意せよ。天皇がこれまで歴代首相にされてきた三か条の注意、国際協調、憲法遵守、経済安定に比べると、ずっと具体的な注文で、英米協調路線を明示され、陸相人事まで決めてしまっています。陸軍大臣はこれまで、大臣、参謀総長、教育総監の三長官会議で決めることが慣例になっており、気に入らない内閣には「陸軍として推薦すべき人物がいない」と云って、内閣を倒すことが出来ました。ところが天皇は「畑、梅津以外はたとえ三長官の議決があっても許す意思はない」とまで云われたのです。畑は中支派遣軍司令官から侍従武官長になったばかり。天皇は「今度の武官長はいいよ」と云って、政治色のない誠実な人柄を買っておられました。この機会にしっかりした陸軍大臣を出すことによって、国内の政治、外交の建て直しを進めようと、天皇自ら乗り出されたのです。

 元老の西園寺公望は、「首相の印綬を帯びるほどの者は、お酢を三斗も鼻で吸うほどの苦難を舐めた者でなければ、その資格がない」。こう云って、有力な政治家が次々と暗殺され、人物が払底していることを嘆いていましたが、御前を下がってきた阿部は突然の大命の上、天皇からお叱りを受けたような感じで、それこそ顔中赤いコブが吹き出したよう。三斗のお酢を飲んだと云った様子だったそうです。陸軍としても、こうまではっきり天皇の意思を示されては、服従のほかはありません。三長官会議は、内定していた二人の候補を本人が辞退したと云うことにして改めて畑を推薦し、阿部内閣は八月三十日に発足しました。

 その直後の九月一日、ソ連と独ソ不可侵条約を結んだドイツはなだれを打ってポーランドに進撃を開始、イギリス、フランスも三日ドイツに宣戦布告、第二次世界大戦となったのです。もし三国同盟を結んでいたら、日本はこの時点で自動的に参戦するハメになっていたわけです。海軍大臣の米内光政が辞職の挨拶に参内すると、天皇は「有難う。海軍がよくやってくれたお陰で、日本の国は救われた」と云われたそうです。三国同盟が英米との対立を深めると、不眠症になるほど心配されていた天皇としては、まさに偽らざる心境だったのでしょう。

 

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