第3回 日露戦争の軍人たち

 きょうは日露戦争の二人の軍人。一人は旅順口の閉塞作戦で戦死して、軍神とうたわれた海軍の広瀬武夫中佐、もう一人はこの習志野の騎兵旅団を率いて、世界最強のロシアのコサック騎兵を破った秋山好古陸軍少将。この二人を中心に、当時の軍人がどんな軍人だったのか、またどんな物の考え方をしていたのか、昭和の時代と比べながら話してみたいと思います。

 

 日露戦争というのは苦戦の連続、まさに九死に一生の戦いでした。完壁な勝利と云えるのは、日本海海戦くらいのもので、後は後に陸軍記念日になった奉天の戦いにしても、どっちが勝ったかわからないうちに、相手の方が退却していってくれました。ただ日本の陸軍も海軍も、当時としては最高水準の兵器で戦ったのです。例えば連合艦隊の戦艦三笠や朝日は、大砲にしろ設備にしろ、世界でも最優秀の軍艦でした。だからこそ、超大国ロシアを相手にして、どうにか勝つことが出来たのです。ここが太平洋戦争と違うところです。

 

 太平洋戦争は「太平洋戦争を日露戦争で戦った」と云われるくらい、四十六㌢砲の巨砲を搭載した戦艦大和とか、ゼロ戦、ゼロファイターと恐れられた海軍の零式艦上戦闘機とか、部分的には大変優れたものがありながら、トータルで見ると極めて旧式な、日露戦争当時のままの兵器で戦ったのが太平洋戦争でした。昭和十八年に私が中学に入った時、軍事教練で使っていたのが三八式歩兵銃です。明治三十八年採用の銃で、銃身が長くて大変重たい、中学生の肩にはズシリと重さがこたえる銃でした。そして何よりびっくりしたのは、昭和十二年に支那事変が始まった時、この三八式歩兵銃が日本陸軍の主要兵器だったことです。日露戦争で使ったのは明治三十年採用の三十年式歩兵銃でしたが、カバーがないためほこりが入りやすい。そこで戦争が終わると、ほこり除けのカバーをつけて三八式歩兵銃としたのですが、当時としては射撃の精度も高く優秀な銃でした。しかし太平洋戦争まで何と三十年以上も、同じ鉄砲を使い続けていたのですから、常識で考えたって大変な遅れです。

 

 ドイツは第一次世界大戦中の大正七年には、歩兵が一人で持って撃てるサブ・マシンガンを開発していますし、アメリカも翌年、トンプソンという短機関銃を作っています。これが戦争が終わっていらなくなり、禁酒法時代のギャングに大量に流れて、派手に撃ちまくるハリウッド映画お馴染みの場面となるのですが、アメリカではギャングでさえ、一分間に五百発撃てるマシンガンを持っているのに、日本の軍隊は一発ずつ狙って撃つ。とても勝負になりません。鉄砲の口径を大きくし、銃身を十センチ短くして、軽くなった九九式歩兵銃が登場するのは昭和十四年のことです。皇紀二千五百九十九年に採用されたので九九式と云うのですが、これとても自動小銃ではありません。「自動小銃にしたらどうか」と云った意見もあったのですが、工業力が貧弱な悲しさ。自動式にして弾丸の無駄遣いをするよりは、よく訓練して一発必中の方がよい。こんな精神論で見送られてしまったんだそうです。しかも九九式の生産が追い付かず、敗戦までとうとう全軍にいきわたらなかったと云うのですから、お粗末の限りでした。

 

 日本の敗色が濃くなった昭和十九年二月、時の首相東条英機は国民の奮起を求める演説をしました。毎日新聞はこの東条演説の記事に続けて「勝利か滅亡か、戦局はここまできた」「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋航空機だ」。こんな強烈な見出しの特集記事を掲載したのです。海軍省担当キャップの新名丈夫記者が、「厳しい戦争の実相を国民に訴えなければ、この戦いは負ける」と、止むに止まれぬ思いで、筆をとった記事でした。あの時代、よくもこれだけのことが書けたものだと思いますが、各社の陸海軍キャップは検閲フリー・パスの慣行があり、それで事前検閲にひっかからなかったんだそうです。

 

 「敵が飛行機で攻めてくるのに,竹槍では戦えない」。まあ誰が考えたって、当然至極のことを書いたのですが、東条首相は激怒しました。この記事は国民を悲観させ、戦意を喪失させる。大本営発表にも疑いを持たせる。竹槍でも戦うのは陸軍の基本方針だ。だから、竹槍で勝てないというのは敗戦思想であり、陸軍の作戦をバカにしたと云うのです。東条は毎日新聞の廃刊を迫りましたが、情報局にも骨のある人はいました。村田五郎という情報局次長は、「あのくらいの記事を書いた程度で廃刊にすれば、世間の物議をかもすし、ひいては外国からも笑われる」。こう云って怒り狂う東条をなだめ、発禁処分と責任者処罰で納得させたのです。編集局長は責任をとって辞職しましたが、新名記者が進退伺いを出すと、それを突き返して局長賞を贈ったそうです。編集局長賞というのは、新聞記者にとっては最高の名誉ですが、それだけでは終わりませんでした。新名は八日後、東条の命令で三十七歳の二等兵として四国の丸亀連隊に懲罰召集されたのです。

 

 強度の近眼で兵役免除になっていた新名記者です。連隊区司令部でも、こんな兵隊をとっても役に立たないと思ったのでしょう。即日、召集を取り消したんですが、東条と云う人は、こういうことにはしつこいのです。師団司令部に「絶対帰すな」という厳命がきて、新名はたった一人で入営しました。海軍が「こんな老兵を一人だけ、名指しで召集するのはおかしい」と抗議すると、陸軍は大急ぎで同年代の二百五十人を召集したのです。丸亀連隊にも、骨のある人はいたようです。他の兵隊と一緒に新名を三か月で除隊にしてしまいました。その際担当将校は、新名に云ったそうです。「中央の命令で君をとった。沖縄か硫黄島に送れということだった。いずれ再召集がくるから、内地にいない方がいい」。

 

 この忠告で、海軍が報道班員としてフィリピンに送ってくれたので新名は命拾いしましたが、辻棲あわせにとられた二百五十人は再召集され、全員硫黄島に送られて玉砕したそうです。敗戦後にそのことを知った新名は、「何とも遣り切れない、たまらない気持ちだった」と云っています。東海大学の総長をされた松前重義さんも通信院の局長時代、この戦争は早く終わらせないとダメだと、東条内閣の倒閣運動をやってにらまれ、四十三歳の二等兵で召集されました。技術のエキスパートにさせたのが穴掘りだったというのですから、何ともひどい話です。

 

 その点アメリカは違います。戦時動員をする時、本人の経歴、専門、さらには能力から配置を考え、それにふさわしい待遇をしています。映画監督のジョン・フォードは海軍中佐。ミッドウェー海戦ではドキュメンタリー映画のメガホンをとっていますし、パイロットの経歴を持つ映画俳優のジェームズ・スチュワートは空軍大佐です。日本の場合は、仕事や能力に関係なく召集し、戦地で軍医が足りなくて困っていると云うのに、お医者さんを兵隊に使ったりした話はザラでした。大本営発表にしても、そうですね。アメリカやイギリスが常に損害を率直に発表して、国民の奮起を促したのに対し、日本の大本営は味方の損害は極力少なめにし、戦果を誇大に発表するようになっていったのです。

 

 どうもこの「隠す、ごまかす」といった体質は、未だにちっとも変わっていない感じがしますが、太平洋戦争の時代は実にバカバカしい、無駄なことにエネルギーを使っていた時代でもありました。家庭の主婦を動員して竹槍訓練をさせたり、敵の言葉は一切ダメだというので、野球用語をわざわざ日本語に変えたりしています。ストライクを「ヨシ一本」、三振を「ソレマデ」と云ったと云うのですから、何とも情けなくなります。

 

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