第31回 日ソ中立条約と日米交渉始まる

 六十年前の敗戦の日、私は中学三年生でしたが、勤労動員先の軍需工場で玉音放送を聞いて、正直云って全てが真っ白になったような気持ちでした。二、三日してからだったでしょうか、近くの銭湯へ出掛けて行って、煌々と電灯の明かりがついているのを見て、初めて「あ〜戦争は終わったんだ」と実感したものです。そのとき脱衣場でも洗い場でも、大人たちが口々に「ソ連が裏切ったから負けたんだ。この悔しさは孫子の代まで語り継がねは」、「そうだ、そうだ」とみんなで云い合っていたのを、今でも鮮明に覚えております。

 日本がソ連との間に日ソ中立条約を結んだのは昭和十六年四月ですが、有効期間は五年。ですから条約は、翌年の二十一年四月まで生きていたのです。ところがソ連は敗戦一週間前の八月八日、これを一方的に破って日本に宣戦布告、満州から一斉に攻め込んできました。ドイツ、イタリアが降伏して、云ってみれば日本だけで世界中を相手に戦っているような時です。多くの国民は、中立を約束しているソ連が、まさか後ろから攻めてくるとは思ってもいなかったし、それだけに弱り目に付け込まれ、「国際信義の上からも絶対に許せない裏切りだ」と怒ったのです。

 ワラにもすがる思いは、日本政府も同じでした。四月五日にソ連が「中立条約を延長しない」と通告してきた時も、条約期限があと一年残っていることに一縷の望みをかけ、そのソ連を仲介にした和平工作に懸命になっていたのです。実際はどうだったのでしょう。その年の二月、クリミア半島の保養地ヤルタにルーズベルト、チャーチル、スターリンの米英ソ三首脳が集まり、ヤルタ会談が開かれています。ソ連は樺太南部と千島列島領有を条件に、ドイツ降伏後二、三か月で対日参戦をする。こう云う秘密協定を結んでいたのです。抜き打ちではなく、中立条約延長せずの意思表示だけはしておこうというわけですが、何とも空しい和平工作でしたし、情勢音痴もいいところでした。

 この日ソ中立条約の立役者は、何と云っても第二次近衛文麿内閣の外務大臣松岡洋右です。十五年九月に締結された日独伊三国同盟にしても、ほとんど松岡一人のペースで進められましたし、近衛内閣の外交は終始、「万事オレに任せろ、オレの云うことは間違ったことがない」。こう云う強気で自信家の松岡一人によって引っ掻き回され、引きずられたと云ってもいいでしょう。そして、それがもたらした結果は、日本の運命を左右するほど重大なものだったのです。松岡がドイツ外相リッベントロープの招きに応じて、シベリア鉄道経由でベルリン、ローマ訪問の旅に出たのは、昭和十六年三月十二日のことでした。しかし松岡の独伊訪問は「看板」であって、本当の狙いはソ連との間に政治協定を結ぶ。これが隠された目的だったのです。松岡にとって三国同盟は、日ソ国交調整ためのワン・ステップであり、ソ連を同盟に入れることで米英とのバランスが成り立つ。松岡はこの勢力均衡の上に、初めて行き詰まっている日米関係が打開出来ると考えていました。ですからこの松岡訪欧は、四国同盟の力により最終的には対米和平へ持っていこうと云う、いわば「松岡外交総仕上げ」の足場固めだったのです。

 ドイツも三国同盟締結の際、「日ソ国交調整に正直な仲買人となる」。こう云って、仲介を約束していましたし、松岡も大いに当てにしていました。しかし一向に進展する様子がありません。それどころか、独ソ不可侵条約を結んで一見良好に見られていた独ソ関係は、この頃には急速に悪化していたのです。ルーマニアの石油をはじめとするバルカンの対立、北欧でもぎくしゃくした関係が続いていました。ソ連のモロトフ首相をベルリンに招いて話し合っても決着がつかず、ヒットラーは十五年暮れには「十六年五月十五日までに作戦準備を完了するよう」、パルバロッサ作戦と呼ばれるソ連攻撃命令を出していたのです。松岡はそんなことは全く知らずに、「四国同盟」の夢を描いて訪欧の旅に出たわけですが、出発の時点ですでに松岡構想は根幹から崩れていたことになります。

 シベリア鉄道での松岡は、腹案を練りながら随員を相手に談論風発、とにかくお喋りな人でした。アメリカの駐日大使グルーは、「松岡と話すと、その九五%を彼が喋る」と本に書いていますが、随員たちが松岡につけたあだ名が「一万言就寝居士」。夜中になって酒を飲んでも眠れません。話相手が必要になり、一万語喋ってやっと眠りにつくと云う意味なんだそうですが、まあ誰だって敬遠します。酒に強い陸海軍の軍人や新聞記者がもっぱら聞き役で、松岡に随行した同盟通倍編集局次長の岡村ニー、戦後東京タイムズを創立して社長になった岡村は、こんな話をしています。松岡は「ヒットラーとムッソリーニは付けたり」だと云うのです。「三国同盟はもう出来ちゃったんだから、何もオレが行くことはない。ただモスクワへ行くのに寄らんわけにもいかんから、モスクワの方は帰りに寄った格好にする。目的は君、ソ連との政治協定だよ」。松岡は列車内にソ連の盗聴器が仕掛けてあるのを承知で、自分の話がソ連に入るのを計算して、盛んに気炎をあげていたのです。

 松岡はまずスターリンに会ってから、ドイツへ行くことにしました。ヒットラーやムッソリーニと会見する際、スターリンとさしで話が出来たと云うことは、松岡の立場を強める背景になります。最終目的はソ連との政治協定にあるのだから、まず行きにスターリンに会って顔を見せておき、訪独後の本格的な交渉の伏線を引いておこうと云うわけです。秘書官の加瀬俊一さん、昨年百歳の高齢で亡くなられましたが、加瀬さんが松岡に命じられて、駐ソ大使の建川美次、満州事変の時の参謀本部作戦部長で陸軍中将の建川に、「スターリンと会うから会見を申し込め」。こう電報を打つと、建川からは「会うはずがない。断られて恥をかくだから止めた方がよい」と返電してきました。当時のスターリンはクレムリンの奥深く隠れていて、外交的な場面には顔を出さないと云うのが定評でした。ところが松岡は、「建川のバカが、この松岡なら必ず会うんだ」と云って、「本大臣の訓令を即刻執行相成りたし」と高飛車に命令したのです。

 果たしてモスクワでは、モロトフ首相が松岡と会談中に、「どうです、スターリン書記長と会いませんか」と云います。そしてモロトフが電話すると、待つほどもなくスターリンが現われたのです。松岡とすれば顔見せだけで十分、日ソ関係の具体的な問題には立ち入らずにベルリンへ向かいましたが、「松岡、スターリンに会う」 のニュースは、たちまち電波に乗って世界を駆け巡りました。スターリンには、松岡の腹を探ると同時に、独ソ関係が悪化している時、日ソ間の親密さを世界に印象づける狙いがあったのでしょう。

 

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