第33回 開戦か和平か 東条英機内閣発足へ

 東条英機内閣と言うと、一般的には「軍部独裁の下、ひたすら太平洋戦争に突き進んだ内閣だ」--こう、思われているようです。確かに東条内閣は、成立が昭和十六年の十月十八日、それから五十一日後には「開戦内閣」となるのですが、それじゃ全力を振るって日米戦争に突入したのかというと、決してそうではないのです。日米関係の切羽詰まった時期にきて、昭和天皇や内大臣の木戸幸一が軍人首相東条に託したのは、戦争を避けるための最後の努力でした。そして東条も、それなりの努力はしたのです。それなのに、結局はずるずると無謀な戦争に引きずり込まれてしまったのは、なぜだったのでしょうか。

 実は日米開戦は、実質的には三か月前、九月六日の御前会議で決まっていたのです。第三次近衛文麿内閣の時ですが、ここで決まった「帝国国策遂行要領」は、「帝国ハ自存自衛ヲ全ウスル為対米戦争ヲ辞セサル決意ノ下ニ概ネ十月下旬ヲ目途トシ戦争準備ヲ完整ス」、そして「右ニ並行シテ米、英ニ対シ外交ノ手段ヲ尽クシテ帝国ノ要求貫徹ニ努ム」。一応、和戦両様併記の形をとってはいますが、「十月上旬ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ直チニ開戦を決意ス」。つまり、外交交渉にタイムリミットをつけ、初めて開戦決意を明らかにしたものでした。

 しかも問題なのは、昭和天皇は極めて異例なことに、天皇の意志が「平和」にあることをはっきり示されていたのです。明治天皇の御製、「よもの海 みなはらからと思う世に など波風の 立ちさはぐらむ」。この歌を読み上げられた有名な話は、この御前会議なのです。天皇が「戦争をせず外交交渉をせよ」と言われているのは明らかです。ところが「開戦決意」の国策要領は取り消されず、そのまま御前会議決定になってしまいました。ここに最大の問題がありました。

 御前会議決定は、天皇も承認された「天皇の命令」となりますから、大変な重みを持っています。第三次近衛内閣は、この運命的な決定によって身動きがとれなくなってしまったのです。勝利の見通しがつかない対米戦争、さりとて、陸軍が中国、仏印からの撤兵問題で譲歩しない限り、対米交渉に妥結の可能性は見えてきません。結局近衛は、そのどちらも選択出来ずに総辞職をします。後を引き継いだ東条内閣により、「国策再検討」という曲折をへて開戦となるのですが、きょうは開戦か和平かをめぐって迷走した昭和十六年の九月と十月、日本の運命を決めたこの二か月間を中心に話してみたいと思います。

 

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