第34回 日米開戦へ ハル・ノート

 太平洋戦争は昭和十六年十二月八日、日本海軍機動部隊のハワイ真珠湾攻撃で幕をあけましたが、その二日前の六日深夜、首相の東条英機が首相官邸の日本間に正座し、声をあげて泣いている姿を妻と二人の娘さんに目撃されています。東条は組閣にあたって「白紙還元の御諚」、つまり「外交交渉により日本の要求を貫徹出来る目途がない場合は、直ちに開戦を決意する」、この九月六日の御前会議決定を一旦白紙に戻して、国策を再検討するよう、内大臣の木戸幸一から昭和天皇の意向を伝えられていました。東条は天皇の意志が平和にあることを知っていましたし、「天子様がこうとおっしゃったら、自分はそれまでだ。天子様には決して理屈は云わない」と云っていた東条です。それがついに開戦を決定し、天皇の期待に副えなかった、その罪を感じた涙だったのでしょうか。

 十月十八日に組閣した東条の態度は、とにかく「白紙還元のの御諚」に忠実に副おうとするものでした。外務大臣に平和主義者の東郷茂徳を起用したのもそうですし、初閣議のあと早速十一項目の検討項目を各省、統帥部に示し、国策の再検討を要請しています。その資料をもとに大本営政府連絡会議が二十三日から三十日まで、一日休んだだけでまさに連続して開かれたのですが、もし日米戦争を避ける最後のチャンス、それもほんのかすかなチャンスがあったとしたら、それはこの国策の再検討だったでしょう。日本とアメリカの間には、天と地ほどの大きな国力の差がありました。しかも戦争には絶対に欠かせない石油をストップされ、四年余りの支那事変で日本の国力は疲れ切っていました。その現実を冷静に分析し直視したら、日本の選択肢は「臥薪嘗胆」しかなかったはずなのです。しかしそれは、アメリカの要求をほとんど全面的に呑んで、屈服することを意味します。当然国内の反発、ことに強硬論の軍部は猛反対したでしょう。それを抑えるには、高度の政治判断と蛮勇を振るう勇気が必要だったのです。

 第三次近衛文麿内閣が総辞職した時、内大臣の木戸が軍人首相東条に託したのは和平への最後の努力でした。天皇に対する忠誠心と陸軍部内の統制力を持つ東条なら、それが出来ると期待したのです。確かに東条はあの時期、軍部を抑える努力をし、また東条自身の積極的な選択ではなかったのに、結局は既定の開戦へのコースにずるずる引きずり込まれてしまいました。なぜ、そうなったのか。私は東条の性格、そして何よりも首相としての資質が大きな誤算を生むことになったように思います。

 

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