第38回 山本五十六戦死とアッツ島玉砕

 私が中学校に入ったのは昭和十八年四月ですが、何といってもショックだったのは、入学早々の連合艦隊司令長官山本五十六の戦死でした。大本営が五月二十一日午後三時、「連合艦隊司令長官海軍大将山本五十六は本年四月前線に於て全般作戦指導中敵と交戦飛行機上にて壮烈なる戦死を遂げたり。後任には海軍大将古賀峯一親補せられ既に連合艦隊の指揮を執りつつあり」。こう発表し、内閣情報局も午後五時、「天皇陛下に於かせられては、山本の多年の偉功を嘉せられ、元帥の称号を賜ひ特に国葬を賜ふ旨仰出さる」と発表したのです。

 目の前が真っ暗になった思いでした。夜帰宅した父が「大変なことになった、大変なことになった」と、部屋の中をおろおろしていたのを今でもよく覚えております。私の父は海軍関係の軍需会社に勤めていましたが、同じ新潟県出身ということもあって、それはもう大変な山本贔屓でした。「山本さんがいる限り日本海軍は大丈夫だ」と、口癖のように言っていたものです。お読みになった方も多いと思いますが、昭和四十年に阿川弘之さんの「山本五十六」を送ったところ、その後出た新版と共に何度も何度も読み返したのでしょう。遺品の中から、ボロボロになった二冊の本が出てきました。

 ほとんどの国民は、主力空母四隻を失ったミッドウェー海戦も、「転進」と発表されたガダルカナルの悲惨な戦いも知りません。ただ昭和十七年の暮れになると、街のあちこちに「欲しがりません勝つまでは」。こんなポスターが貼り出され、物不足の深刻化と共に、何となく少しおかしくなって来たんじゃないか、漠然とした不安は感じていました。「勝利のために頑張ろう」と、国民に我慢を強いる合言葉となったこの標語は、作者が国民学校五年生の少女だというので話題になったものでしたが、実際は父親の代作だったんだそうです。それはともかくとして、開戦一周年を前に十二月三日からは山本嘉次郎監督の東宝映画「ハワイ・マレー沖海戦」が上映され、日本中がまだまだ勝利の余韻に浸っていたのです。私も二度も見に行きましたが、封切りわずか八日間で百十五万円の興行成績を記録、観客動員実に一億人という空前のヒット作になりました。七十七万円の製作費も当時としては破格なものでしたが、この映画が戦争映画の最高傑作と言われるのは、特殊撮影を担当した円谷英二の力です。真珠湾をはじめ、戦艦、飛行機などの精巧な模型を作り、それを動くクレーンから撮影して、実戦さながらの臨場感で私たちを沸かせたのです。

 

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