第39回 戦時下の言論 中野正剛代議士自殺と横浜事件

 太平洋戦争の代表的な言論弾圧、思想弾圧事件と云えば、これからお話する中野正剛代議士の自殺と横浜事件です。中野場合は新聞がすぐ「中野正剛氏自殺、昨夜日本刀で割腹」。二段見出しで速報しましたし、現職代議士の突然で、しかも自刃という死に方の異常さもあって、政界、言論界に大きな衝撃を与えましたが、これは憲兵の圧力によるものでした。横浜事件の方は昨年の四月、横浜地方裁判所で元被告の遺族による再審請求が認められ、新聞、テレビでも大きく取り上げられましたから、皆さんもよくご存じだと思います。しかし、戦争中は全く報道されず、もう少し戦争が続いていたら、あるいは闇から闇に葬られていたかも知れないのです。こちらは悪名高い特高警察が、それもでっち上げ調書を作るため、言語を絶する拷問により四人が獄中で死亡、四人が保釈後に死ぬと云う凄惨な事件でした。きょうはこの二つの事件を中心に、昭和十七、十八年頃の国民生活がどんなものだったのか、そんな中で時の東条英機内閣打倒、さらには戦争終結へ向けての動きがどのように進められていたのか。「戦時下の言論」というテーマで話してみたいと思います。

 戦争中の思い出と云うと、戦争に行かれた方、戦争で肉親を失われた方、あるいは私のように勤労動員にとられて空襲で焼け出された者など、その時の境遇、年代によっても様々だと思います。食い物の恨みは恐ろしいと云いますが、何が一番辛かったかと聞かれれば、私の場合は情けないことに空腹です。とにかく満足に食べるものがなく、「ああ腹いっぱい、ご飯を食べたい」、戦争末期には甘いものに飢えて「お汁粉を食べたいな」と、どのくらい思ったでしょうか。

 お米はすでに開戦前、昭和十六年四月から割当通帳制による配給になっていました。支那事変が長引き、農家の働き手はほとんどが戦場です。そこへ朝鮮、西日本一帯が凶作に見舞われ、米不足が心配になってきたためですが、配給量は大人一人一日あたり二合三勺、三百三十グラムでした。普通の大人の消費量を二割ほど下回るものでしたが、国民が食糧難を実感するようになったのは、十八年六月に米の代用としてジャガ芋が配給され、その分米が差し引かれるようになってからでしょう。

 

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第39回 戦時下の言論 中野正剛代議士自殺と横浜事件 配布資料(メモ・年表).p
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