第4回 日本海海戦

 日露戦争と云えは、ここにいらっしゃる皆さんはすぐ 「陸の乃木希典、海の束郷平八郎」 を思い出されると思います。ところが今の若い人は、乃木神社、東郷神社は知っていても、乃木さんも知らなければ、束郷さんも知らない人が多いようです。八年ほど前でしたか、ある雑誌に載った当時の国連事務総長ガリさんの写真を見て、びっくりしたことがあります。それは日本での忙しい日程の合間を縫って、夫人と一緒に東郷神社を参拝している写真でした。ガリさんは小学生の時、エジプトの教科書に載っていた日本海海戦のことを読んで感激し、東郷さんを尊敬するようになったと云うのです。来日の都度必ず東郷神社を参拝し、その時は五回目だったそうです。この写真の東郷さん、随分勲章をいっぱいぶら下げていますが、ほとんどが外国からもらったもので、それほど東郷は外国では有名人なのです。これは 「アミラーリ」、「提督」と云う名前のオランダのビールですが、ラベルの肖像画は紛れもなく東郷です。ちゃんと平八郎・東郷、一八四七年に生まれ一九三四年に亡くなったとあります。もともとはフィンランドのビールで、「東郷ビール」 として有名ですが、フィンランドのようにロシア帝国にいじめられたり、侵略されたりした国では、ロシアのバルチック艦隊を破った東郷は英雄であり、日本海海戦は当時「東洋の奇跡」と称賛された戦いだったのです。ガリさんのエジプトはイギリスの植民地でしたが、長い間白人に支配され続けてきた感情が、「アジアの国日本が白人の国ロシアを破った」 と云うので、子供心に大きな感動を呼んだのでしょう。

 

 かんじんの日本はどうでしょう。東郷の名前は敗戦と共にすっかり忘れられていて、小学校六年の社会の教科書に登場するようになったのは、やっと十三年前のことなんです。平成元年の新しい学習指導要領で、「歴史学習で取り上げるべき人物」 四十二人の一人として東郷の名前が出てきたのですが、さっそく平和団体が「軍国主義の復活だ」と噛み付きました。ちょっと前の中学や高校の歴史の教科書を見ても、「日本海海戦に敗れたロシアは、日本との講和を急ぐようになった」とあるだけで、東郷の名前は全く出てきません。これでは戦後生まれの方が東郷を知らないのも無理はないのですが、どうも 「二度と戦争をやってはいけない」ということで、歴史的な事実までことさらに目をつぶってしまった感じがします。

 

 それはともかくとして、ガリさんを感激させた日本海海戦とは一体どんな戦いだったのでしょうか。戦いの規模、結果の重大さから見て、世界で大海戦といわれるものは三つあります。まず紀元前四八〇年、劣勢を伝えられたギリシア・アテネの艦隊が、クセルクス大王のベルシア大艦隊を破ったサラミスの海戦です。次が日本海海戦のちょうど百年前。一八〇五年十月、ジブラルタル海峡の出口、トラファルガー岬の沖合で、ネルソン提督率いるイギリス艦隊が、フランスとスペインの連合艦隊を破ったトラファルガーの海戦です。ネルソンはこの戦いで戦死しましたが、敗れたナポレオンはイギリス本土上陸作戦を断念せざるを得なくなり、以後海の支配権を握ったイギリス隆盛の道が開かれました。ですからネルソンは救国、国を救った英雄であり、ロンドンの中心街にはトラファルガー広場が作られて、ネルソンの銅像が一際高く聳えているのです。今でも十月二十一日は「トラファルガー・デー」と称して、イギリス人の集まる所必ずディナー・パーティーが開かれ、ネルソンに感謝の杯を上げるのだそうです。

 

 そして三番目が明治三十八年五月二十七日、東郷平八郎率いる日本艦隊が対馬沖でバルチック艦隊を破った日本海海戦です。戦前は五月二十七日が海軍記念日でした。敗戦で海軍と共になくなったのは仕方がないとしても、三大海戦の中でこれほど完壁な勝利はなかったし、逆にもし日本が敗れていたら対馬は勿論、恐らく北海道もロシア領になっていたでしょう。そして何よりも、白人に支配され続けてきたアジア人に、大きな勇気と希望を与えた戦いだったことを考えると、この戦いのことがもう少し知られていてもいいように思います。

 

 それではこの日露海軍の決戦を前に、世界はどう見ていたのでしょうか。実は「ロシア優勢」の声が圧倒的に強かったのです。時のアメリカ大統領、日本びいきで海軍通で知られたセオドア・ルーズベルトでさえ、親しい友人に宛てた手紙で「日本勝利の可能性はせいぜい二〇%だろう。日本艦隊が敗れた場合、日本は滅亡の悲運に遭遇するであろう」。こう書いていたくらいでした。根拠は戦艦の数の違いです。日本は海軍大臣山本権兵衛が戦艦六隻、一等巡洋艦六隻のいわゆる「六六艦隊」を作ってこの戦争に入りましたが、初潮、八島の二隻がロシアの機雷に触れて沈没し、戦艦は四隻に減っていました。対するバルチック艦隊は二倍の八隻です。当時の海上決戦は、大きな軍艦、大きな大砲をいかに数多く持っているかで決まる。これが常識でした。八吋以上の大砲の総数はほとんど同じなのですが、一番大きな十二吋砲は二十六門対十六門、その下の十吋砲に至っては十五門対一門。大きな大砲は圧倒的にロシアが多いのです。海外の軍事専門家が「ロシア優勢」と見たのも無理はありません。

 

 ですから明治三十七年十月十五日、バルチック艦隊がバルト海のリバウ軍港を出港し、はるばる極東遠征に向かったことが報道されると、日本国内の心配は大変なものでした。私のおりました読売新聞でも、「将に来たらんとする波羅的艦隊」と云うタイトルで、どんな艦隊がやってくるのか、軍艦の写真連載を始めています。それから七か月余り、日本の新聞にバルチック艦隊の記事が載らなっかった日はなく、どの港に寄ったとか、いまこの辺りを航海中だとか。そうした消息記事の後には必ず、気持ちを引き締めよとか、銃後の心得といったことが書いてありました。しかも広い海のことです。艦隊がどこへ行ったのか、何度も消息不明になり、余計心配が募ります。年が明けて三十八年四月八日、読売新聞では発行一万号の祝賀パーティーを開いていたのですが、そこへイギリス商船がシンガポール沖でバルチック艦隊を見たという電報が入ってきて、「とうとうやって来たか」というので、祝賀会どころではなく急遽号外を発行しています。

 

 「皇后の奇夢」、美子皇后、後の昭和皇太后が奇妙な夢を見たと云う新聞記事もあります。皇后が夜も眠れぬほど心配されていると、夢枕に白装束の武士が現われて平伏し「自分は幕末において多少の働きをした土佐の坂本竜馬であります。このたびの海戦は日本の勝利に間連いありません」と申し上げたと云うのです。皇后は竜馬をご存じありませんでした。これを聞いた土佐出身の宮内大臣田中光顕が、竜馬の写真を探し出してきてご覧に入れると、「確かにこの人だ」とおっしゃります。竜馬は神戸で海軍操練所、長崎で海援隊を作って、いわば日本海軍の基礎を作った男だ。その男が勝利を予言したのだから間違いないと、時が時だけにどの新聞にも取り上げられ、大変な評判になったのです。

 

 皇后の見た夢を、誰か意図的に洩らさない限り、下々の新聞記者が知るはずもありません。これは国民の不安を鎮めるため、皇后を利用した田中の作り話でしょう。そして「明治維新は薩長土肥によって成った」。こう云われながら、田中の土佐は極めて影が薄いのです。政界、官界でもそうですし、陸海軍の出征軍の軍司令官,艦隊司令長官に土佐出身者は一人もいません。この機会に土佐と坂本竜馬を売り込みたい。そんな魂胆もあったのでしょうが、田中の策はズバリ当たって、それまでは一部の人にしか知られていなかった坂本竜馬は、今では若い人でも誰でも知っている幕末のヒーローになりました。田中は昭和十四年、九十六歳まで長生きしましたが、晩年になっても「あれは本当の話だ」と云っていたそうです。とにかくこんな記事が出るほど、「あんな大艦隊がきたら、日本は滅亡するのじゃないか」。国を挙げてノイローゼ気味になっていたのです。ところが海戦の結果は、日本の大勝利でした。

 

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「日本海海戦」講演録全文
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「日本海海戦」配布資料(メモ)
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「日本海海戦」配布資料(年表)
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「日本海海戦」配布資料(聯合艦隊解散の辞)
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