第41回 インパール作戦

 これからお話するインパールは、竹山道雄さんの小説「ピルマの竪琴」の舞台にもなっ た戦場です。お読みになった方も多いと思いますし、映画にもなりましたが、インパールはガダルカナルと共に太平洋戦争で最も悲惨な戦いが行われた所です。「酸鼻を極める」という言葉がありますが、インパールがまさにそうでした。昭和十九年三月から始まったインパール作戦には、第十五軍司令官牟田口廉也中将が指揮する三個師団を中心に、約十万の将兵が参加しましたが、進撃と攻防四ヵ月、作戦が失敗に終わり、その敗走は一千キロ、五ヵ月にも及びました。三万五百二人が戦死し、戦傷病者四万一千九百七十八人。損耗率実に七二%という莫大な犠牲者を出したのです。

 中でも悲惨だったのは、犠牲者の多くが戦闘で死んだのではなく、食べるものがないための栄養失調、赤痢やマラリアで体力を消耗し、猛烈な豪雨の中での敗走中に倒れたことでした。撤退して行く道は日本兵の死体だらけ、蛆虫が小山のようにたかっています。蛆というのはあんなにちっちゃくても、これだけ集まると、人間の死体なんてもう一日で完全に食い尽くしちゃうんだそうです。下がれば下がるほど、道の両側は日本兵の白骨で埋まり、兵隊たちは退却路を「白骨街道」、また靖国神社へ行く道だというので、「靖国街道」とも呼ぶようになったのです。

 インパールは、ヒマラヤの尾根に当たるインドの東部。現在のミャンマーであるビルマ国境近くにあるアッサム州の町で、イギリス第四軍の補給基地が置かれていました。しかし、ここを攻めるには、各師団の進撃距離は百キロから三百キロもあり、行く手には二千メートルクラスの険しいアラカン山系、人跡未踏、悪疫瘴癀の密林地帯が待ち構えているのです。当然、万全の補給、輸送路を確保しなければ、成り立たない作戦でした。ところが日本軍には、これを支援する十分な航空兵力もなければ、満足な機動力もありません。牟田口軍司令官がとったのは「ジンギスカン戦法」。八百年も前のモンゴル帝国の英雄、ジンギスカンの遠征にならって、 象や牛馬で食糧、弾薬を運び、食べるものがなくなったら、その牛馬を殺して食べる。インパールは敵の補給基地だから、ここさえ取れば後の補給は何とでもなる。「糧は敵から奪え」という、一人よがりの、時代遅れの考えも甚だしいものだったのです。補給がどんなに大切か、また制空権を奪われた中での補給がどんなに難しいものなのか。ガダルカナル敗戦で、いやというほど実感したはずでしたが、その貴重な教訓は生かされませんでした。悲劇の第一歩は、この補給無視にあったのです。

 

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