第45回 鈴木貫太郎内閣成立、その日大和は沈んだ


 硫黄島を攻略した米軍は、息もつかせずに沖縄へ進攻して来ました。昭和二十年三月二十六日、沖縄本島の西測にある慶良間列島に上陸して来たのです。翌日の二十七日夜には、関門海峡に一千個の機雷が投下され、長距離爆撃機B29による機雷作戦も始まりました。米軍は「飢餓作戦」、「日本を飢えさせる作戦」と名付けていますが、船が沖合を通れば潜水艦、艦載機に狙われ、沿岸では一万ニ千個に達した機雷の恐怖。日本列島は完全に封鎖され、まさに窒息寸前になっていったのです。

 米軍の沖縄本島上陸作戦は四月一日の朝、嘉手納海岸の猛烈な艦砲射撃で始ま りました。第五艦隊長官スプルーアンス大将率いる艦船千三百十七隻、艦載機千七百二十七機、動員兵力四十五万、上陸部隊は十二万という大軍です。迎え撃つ日本軍は、牛島満中将を軍司令官とする第三十二軍を中心に陸軍部隊六万七千、 海軍の陸戦隊八千。それに防衛召集をした師範学校や中学校、女学校の上級生な ど、「県民部隊」とも言うべき現地義勇兵が二万五千。全部で約十万人ですが、参謀本部にとって何より必要なのは、秋ごろに予想される米軍の本土来攻までに、本土の決戦態勢を整えることでした。ですから、この沖縄戦の位置付けも、出来るだけ米軍を食い止め、時間を稼ぐことだったのです。第三十二軍も、それまでのような水際撃滅戦法ではなく、拠点陣地に拠って出血持久作戦をとりましたか ら、米軍の上陸は、米兵が「エイプリル・フールか」と言うほど、あっけないものでした。出血らしい出血もなく、その日のうちに五万人が上陸して進撃していったのです。

 小磯国昭内閣が総辞職したのは、沖戦が激化した四月五日でした。きっかけとなったのは、「繆斌工作」と言われる対重慶和平工作です。国民党の中央委員だった繆斌は、南京の汪兆銘政権に参加して立法院の副院長になっていましたが、日本の敗色が濃くなってくると、重慶との連絡を試み、それが発覚して閑職に左遷されていました。小磯は、まず重慶の蒋介石との間に話し合いをつけ、その蒋介石の斡旋によって米英との和平に持ち込む。こういう構想を描いていた小磯首相とすれば、とにかく重慶とつながっているのは繆斌ルートだけであり、繆斌を飛行機で東京に呼び寄せると、三月二十一日の最高戦争指導会議に「繆斌工作」 を提案したのです。

 しかし、この工作を進めるには、蒋介石に誠意を示すためにも、前提として南京政権を解消しなければなりません。主席の汪兆銘は前年十一月、名古屋で病死 していましたが、政策の根本的な変更であり、何よりも日本が政権を作っておきながら、それを潰すのはといった、国際信義の問題もありました。重光葵外相は じめ陸海軍は反対しましたし、昭和天皇も四月三日、小磯に繆斌の帰国を命じら れ、「繆斌工作」は挫折したのです。繆斌の重慶測の接触相手は、特務機関幹部の戴笠だったと言われますが、 戴笠が終戦直後に飛行機事故で死亡すると、繆斌 も直ちに「漢奸」、裏切り者として処刑されています。重慶中枢部が「繆斌工作」に関与していて、その暴露を防ぐため素早く処刑したともとれますが、日本の敗北が確定的になっている時です。蒋介石が日本との単独講和に応ずる意思を持っていたとは、到底考えられませんから、戴笠の狙いは、やはり日本と南京政権との離間にあったのではないでしようか。

 そして、「繆斌工作」に躓いた小磯が辞職の決意を固めたのは、陸軍大臣兼務の要望を陸軍からすげなく拒否されたためだったのです。陸軍は本土決戦に備えて全国を東西二つの軍管区に分け、東日本の第一総軍司令官に陸相の杉山元元帥、 西日本の第二総軍司令官に教育総監の畑浚六元帥、陸相の後任には阿南惟幾大将を充てる人事を決め、四月八日付で発令する予定でした。小磯が「繆斌問題」で天皇から呼び出された三日、この人事を内奏するため参内していた杉山陸相から、 「ちょうどいい機会だから、君の了解を得ておきたい」と、告げられたのです。 陸相という、戦時内閣で一番要になる閣僚の更迭を、首相には一言の断りもなく 決め、しかも先に内奏するというのは、順序も違っていますし、陸軍が首相をいかに軽く見ていたかを物語っています。

 
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