第46回 沖縄戦と和平へ向けて


 三年九か月余りにわたった太平洋戦争で、沖縄は日本本土では唯一戦場となった島でした。それは、海軍部隊の指揮官大田実少将が打った有名な電報、「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」。この言葉に象徴されているように、沖縄戦の特徴は、第一に、島民が軍の指揮下に置かれて戦闘に組み込まれ、軍民一致で行なわれたこと。第二に、軍と島民が混在している沖縄南部が戦場になったため、多くの住民を巻き添えにした「悲劇の島」となったことでした。

 日本国内で住民を共にした最初で最後の戦闘は、昭和二十年六月下旬、三か月間の攻防で終わりましたが、日本側の戦死者は沖縄県教育委員会編纂の「沖縄県史」によると、約十八万八千人となっています。そのうち本来の日本軍は六万六 千人弱。兵力不足を補うため、満十七歳から四十五歳までの県民男子を防衛召集 しましたが、この島民義勇兵と弾丸や糧秣運搬などに当たった戦闘協力者が二万八千人余り。さらに一般島民にも九万四千人の死者を出したのですから、島民の犠牲者は実に六五%を占めたことになります。

 とにかく、戦える者は全て軍に所属させられたのです。最年少は十三歳、中学の一年生です。沖縄師範や県立一中など中学上級生の「鉄血勤王隊」は、 ある者は兵士として敵陣に斬り込みましたし、ある者は伝令、通信の任務に当たりました。「ひめゆり部隊」の名前で知られる女学生も、看護婦として従軍しました。そして「鉄血勤王隊」で千五十一人、「ひめゆり部隊」などに三百六十八人の戦死者を出したのです。まさに、島ぐるみで軍と共に戦った島、それが沖縄でした。

 南の平和な島だった沖縄が、「戦場の島」へと模様替えしていったのは、戦局が悪化した昭和十九年に入ってからです。三月二十二日、南西諸島防衛のため新たに第三十二軍を編成して、独立混成二個旅団を配置することにしましたが、九州から輸送途中に潜水艦攻撃を受け、主力が水没してしまいました。そこへ六月十五日、米軍のサイパン島上陸です。大本営は、次に進攻が予想される沖縄の防衛強化に迫られ、急遽満州から第九師団と第二十八師団、戦車第二十七連隊を第三十二軍に編入したのです。そして、五十七万の沖縄島民をどうやって戦火から守るか、ことに老幼婦女子の疎開問題が緊急の課題となってきました。

 日本陸軍は明治十年の西南戦争以後、国土での戦いを経験したことがありません。また日清、日露戦争以来、満州、中国大陸と、常に外地で戦ってきましたから、一般住民の住んでいる所で戦う国土戦の研究もしてきませんでした。ところがサイパンでは、島民の島外引き揚げが遅れたため、住民を巻き込んだ「玉砕の島」になりつつあります。大本営はサイパン奪回作戦の指揮官として、満州の関東軍から勇猛で知られる長勇少将を東京に呼び寄せていたのですが、奪回が不可能になりました。そこで七月一日、その長を沖縄に派遣し、遅蒔きながら非戦闘員の疎開について研究を命じたのです。サイパンが陥落した七月七日、政府は緊急閣議で、長の視察報告に基づき沖縄の集団疎開を決定しましたが、長も翌日八日付で中将に昇進、第三十二軍参謀長に任命されて、島民疎開を推進することになります。

 何よりも急がなければならないのが、二十九万の老幼婦女子でした。軍が県と協議した結果、約三分の一、十万人を疎開可能者と見て、軍隊や軍需品を送ってきた輸送船の帰りを利用し、主力を九州に、一部を台湾に送ることにしました。九州各県の受け入れ先も決まり、警察が中心となって疎開の趣旨を伝え、説得に努めたのですが、まだ戦場気分とは遠い当時の沖縄のことです。縁故でもあればともかく、幼い子供や年寄を未知の土地へ送る心配、生活不安や郷土への愛着も あって、なかなか疎開に踏み切れないというのが実情だったのてす。

 

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