第47回 本土決戦 日本の国力は…


 沖縄の戦いが絶望的になつてきた昭和二十年六月になると、「一億特攻」、こんな活字が新聞紙面に躍るようになりました。陸軍はすでに四月二十日、 「皇土決戦訓」を全軍に布告して、「本土決戦」を声高に唱えるようになっていました。 いま「皇土」なんて聞いても、何のことか首をかしげる方もいらっしゃると思い ますが、国土、日本本土のことで、皇国とか皇軍とか、何でも天皇の「皇」の字をつけて、重みを持たせようとした時代でした。「皇土決戦訓」では「体当り精神に徹し、一億戦友の先駆たるべし」としていますが、国民もこれに呼応して、米軍が上陸して来たら、一人一人が特攻精神で敵と刺し違えようと言うのです。考えて見れば、国民スローガンは「一億一心」に始まり、それが「一億総動員」とな り、 「一億特攻」から「一億玉砕」へとつながっていくわけですが、多くの国民 もこの頃には、米軍の本土上陸が間もなく現実のものになることを覚悟していま した。

 陸軍に本土決戦思想が生まれたのは、正しく言えば、「もうこれしかない」と言うところまで追い詰められたのは、フイリピンの「レイテ決戦」に敗れてから でした。大本営は昭和十九年十二月十九日、「レイテ決戦放棄」を決定しましたが、参謀本部戦争指導班長の種村佐孝大佐は、「大本営機密日誌」にこう書いて います。「こうなつた以上、今後の戦争指導上和戦の転機を何れに求むべきか、 大本営として作戦の重点を何れに指向すべきか、は重大なる問題となつて来た。 ここに本土決戦思想が擡頭するに至つた」と。そして年が明けた二十年一月十九 日、大本営は日本の軍事史上では初めて、陸海軍同一の本土決戦作戦計画を策定 したのです。決戦の頭文字から「決号作戦」と名付けていますが、決戦準備の重点は九州と関東平野とし、米軍の本土来攻を秋以降と判断、八月を目標に決戦態勢を整えることになりました。

 そうは言っても、陸軍兵力はほとんど南方と中国戦線に出払っていて、本土にはわずかに八個師団と戦車一個師団しかないのです。そこで、新たに四十個師団以上を編成して、本土決戦用に配備するというのですが、容易なことではありません。開戦時五十一個師団、二百二十七万の兵力でスタートした陸軍でしたが、 戦局の悪化と共にどんどん膨れ上がり、動員のための施策はほとんど出尽くしていたと言つてもいいでしょう。昭和十八年十一月に兵役法を改正、兵役最終年齢を五年延長して四十五歳にしましたし、翌月には満二十歳の徴兵年齢も一年繰り上げて十九歳です。朝鮮や台湾の徴兵制も実施しましたし、十九年年末の動員軍 人総数は五百三十七万人。町や村には、もう老人と女、子供しか残っていないのです。

 この新規大動員をめぐって、陸軍省と参謀本部の間で激論になりました。「大本営機密日誌」には、「このように内地兵備は未曾有の規模をもって大膨張しよ うとしている。兵員はいよいよ質が低下するであろうし、さらにこれに要する装備はどうなるか。実に十二、三歳の少女に子供を産めというに等しい難問題であった」とあります。陸軍省側が「兵備は数の多いのが良いのか、少数でも充実したものが良いのか」と質せば、参謀本部作戦部長の宮崎周一中将は「質より数を尚ぶ」。参謀次長の秦彦三郎中将も「本土上陸の第一波擊摧に失敗したら、その後の計画は不可能だ。従って持久戦はできぬ。絶対後のことは考えぬ。まず第一波擊摧に全力を傾注する」と答えます。とにかく上陸予想地点は、九州と関東だ けでも、鹿児島の志布志湾、吹上浜、宮崎海岸、相模灘に九十九里浜、鹿島灘といっぱいありますし、そこに兵隊も張り付けなければなりません。大本営は二月二十六日、百五十万の「根こそぎ動員」実施を決定したのです。米軍はこの十九日、硫黄島に上陸して来ていましたが、種村大佐は「大本営機密日誌」に「この夜硫黄島に血戦続き、内地には雪霏々として降る。二・二六当時の悲壮さを思わ しめた」と書いています。

 
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