第49回 ポツダム宣言と黙殺


 ベルリン郊外のポツダムに米英ソ三国の首脳、トルーマン、チャーチル、スターリンが集まり、ポツダム会談が始まったのは、六十六年前の昭和二十年七月十 七日でした。二十六日の夜には、日本に対する最後通告として「ポツダム宣言」が発表されたのですが、全部で十三項目から成り、繰り返し降伏を要求してはいる ものの、日本側にとって戦争終結の核心である天皇制については、その存続を許すとも許さないとも、何とも触れていません。土壇場に来ていたこの時期、日本の最高首脳部の間で、終戦か戦争継続かをめぐって論議された最大の焦点は、国体を護持出来るかどうかでした。国体とは、広辞苑によると「主権または統治権の所在により区別した国家体制」とあり、日本の場合は天皇制そのものを意味しま す。ですから、宣言第十二項の「日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府力樹立セラルルニ於テハ…」。この抽象的な表現が、果たして天皇制を認めるものなのかどうか、政府、軍部内で意見の対立と混乱を 招くことになったのです。

 その結果、日本政府が二十七日朝に宣言の内容を知ってから、八月十五日の終 戦までに、二十日間の貴重な日時が空費されてしまいました。中でも鈴木貫太郎首相が二十八日の内閣記者団との会見で、「政府としては何ら重大な価値ありと は考えていない。ただ黙殺するだけである。我々は戦争遂行に邁進するのみであ る」。この「黙殺」発言がアメリカでは「日本拒絶」と報道され、著名な政治学者岡義武は「鈴木首相がこのポツダム宣言を黙殺したことは、米英側を刺激し、 八月六日に広島、同九日に長崎への原爆投下となった」。こう書いていますし、 八日のソ連参戦にも絶好の口実を与えることになってしまいました。

 太平洋戦争中、千三百四十七日間の戦死者は、軍人、民間人合わせて約三百三万人ですが、この二十日間だけで少なくとも三十八万人余り、その十三%の人命が奪われたのですから、空費された結果は余りにも重大でした。きょうは、日本の終戦にとって一番大切な時だった「ポツダム宣言」発表の前後、ポツダムでは米 ソの間でどんな駆け引きが行なわれていたのか。また四月に組閣した時から「早期終戦」を決意していた鈴木首相が、なぜ「黙殺」発言をしてしまったのか。連合軍総司令部GHQは、歴史課を作って戦史編纂に当たらせていましたが、その中に「降伏の決定」の一章が含まれることになり、昭和二十四年から二十五年にか けて、 宮中や政府、陸海軍関係者から詳細に事情を聞いていますので、そういったものも参考に検証してみたいと思います。

 ポツダム会談が始まった頃、日本は戦局でも国民生活でも、もう末期的症状を見せていたと言ってもいいでしょう。軍部はなお「本土決戦」を声高に叫んでいま したが、決戦兵器と言っても、特攻機をはじめ人間が乗ったロケット爆弾の「桜花」、爆薬を積んだ機動艇「震洋」など、人間の体当たりに頼るしかなくなっていたのです。それも、必要な資材は絶望的なほど不足していました。対馬海峡はじめ日本近海は一万二千個の機雷で封鎖され、決戦兵力である飛行機はもちろん、兵器、弾薬の生産も、五月以降は前月の三十%から四十%に落ち込んでいたのです。そこへ、一日も休みなしの連日連夜の空襲です。七月十四日、十五日には北 海道、東北の爆撃で、船舶四十六隻、機帆船百五十隻が撃沈または大破され、そ の中には青函連絡船も八隻含まれていました。北海道の石炭を内地へ運ぶ命綱のようなものですから、政府の衝撃は大きく、軍需大臣の豊田貞次郎は十七日の最高戦争指導会議でこう報告しています。「北海道炭の每月の輸送力に於て十五万 トンを失ったことは、関東、信越地区の石炭供給量を半減させるもので、軍需生産にも深刻な影響を及ぼす。その他の北海道物資輸送力も、月に十万トンを失うこと になった。これら物資は、軍需生産と食糧生産上、他に代えがたいものばかりで ある」

 二十四日には呉軍港が機動部隊の艦載機に攻撃され、わずかに残っていた連合艦隊の艦艇も壊滅してしまいました。戦艦「榛名」、航空戦艦「伊勢」「日向」が沈 没、空母「天城」、重巡洋艦「青葉」が大破。二十八日には重巡「利根」が大破し、軽巡「大淀」が沈没したのです。もっとも、もう油がないのですから、いくら軍艦があったって動かすことも出来ないのですが、実はこれらの軍艦は、ソ連との交渉で取引材料に使う積もりだったというのです。最高戦争指導会議は五月十四日、構成員六人だけの秘密会議で、これは首相、外相、陸海軍大臣に参謀総長、軍令部総長と当時の日本の最高首脳会議ですが、ここでソ連の参戦防止、ソ連の好意的態度の誘致、ソ連に戦争終結の仲介を依頼する。この三点で合意し、七月十四日には天皇の特使として元首相の近衛文麿を派遣することにし、 ソ連政府に申し入れていました。海軍省軍務局第二課長の末沢慶政大佐が話しているのですが、 沖縄戦が終末に近付いた頃、「こっちは軍艦があっても使えないし、ソ連は海軍が欲しいだろう。そこで、これらの軍艦を航空ガソリンと交換しようと、軍令部次長の大西滝治郞中将も承諾し、大臣、総長も承知していた」。まさに、溺れる 者は藁をも掴む心境だったわけですが、それもおじゃんになってしまいました。

 
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