第5回 旅順と乃木希典

 きょうお話しする旅順は、日露戦争で日本が一番苦戦をした戦場です。延べ十三万の将兵が、攻め落とすのに半年もかかり、半分近い五万九千三百人の死傷者を出しました。日露戦争の陸軍の戦死者は全部で六万人ですが、そのうち四分の一の一万五千人がこの旅順で死んでいるのです。第三軍司令官として旅順攻略の指揮をとったのが、長州出身の陸軍大将乃木希典です。日本の陸軍には、西郷隆盛以来百三十四人の陸軍大将が生まれていますが、中でも乃木は、戦後も長く国民の記憶に残る大将の一人でした。苦戦はしたが旅順を攻略した名将であり、乃木白身この戦争で二人の子供を戦死させた悲運の将軍でもあります。しかも衝撃的だったのは、明治天皇が亡くなると、夫人と共に殉死して天皇の跡を追ったことでした。乃木は理由として、遺書に明治十年の西南戦争で軍旗を奪われたことを挙げています。殉死まで三十五年間も自分を貴め続けていた。その責任感の強さと天皇に対する忠誠心が、人々の胸を打ちました。さらには誠実、質素で、慈愛深い。こういった古武士的なイメージが重なり、乃木は浪花節から講談、映画やお芝居にも取り上げられ、軍人のお手本として美化されていったのです。

 

 しかし、敗戦で軍隊がなくなってもなお、乃木の人気が高かった秘密は、何といっても佐々木信綱作詞の唱歌、「水師営の会見」にあったのではないでしょうか。「昨日の敵は今日の友」――国民に広く愛唱されたこの歌は、日本武士道の奥床しさを伝えるものであり、日本人の誇りでもありました。乃木は降伏したステッセル将軍と水師営で会見した時、ステッセルを名誉ある武将として扱いました。降伏の印である剣を取り上げずに、サーベルの着用を許したのです。それはまた、太平洋戦争でシンガポールを攻略した山下奉文大将の、居丈高な態度とも比較されました。山下はパーシパル将軍に降伏を迫って、「イエスかノーか」と、机をドンと叩いたと云うのです。もし山下が乃木にならっていたら、あれほどイギリスの憎しみを買うこともなく、あるいは戦犯裁判で死刑にならなかったかも知れません。

 

 もっとも山下の名拳のために云うと、ちっともそんな積もりじゃなかったのだそうです。これは作家の今日出海さんが、山下から直接聞いた話として書いているのですが、パーシパルが愚図愚図している。そこで「どうなんだ」と通訳に間いたら、通訳がいきなり「イエスかノーか」とやってしまった。つまり通訳の言葉が山下の言葉になってしまったのですが、あのギョロリとした大きな目、堂々たる体格が威圧的な感じを与えて、損をしたのかも知れません。それはともかかくとして、乃木はアメリカの映画技師が会見場面を撮影したいと云ってきても、「敵将を侮辱するものだ」と云って許しませんでした。そして従軍記者たちのたっての願いで承知したのが、会見の後で友人として並んだ記念写真。それも一枚だけという条件でした。お手元の資料の写真がそうですが、このエピソードは外国人記者によって大きく報道され、乃木の名前は世界に広まったのです。

 

 そんな乃木人気に波紋を投げかけたのが、司馬遼太郎さんが昭和四十二年に発表した「殉死」という作品です。司馬さんが「歴史というものは、百年経たないと生乾きの状態で、乃木さんのことをとやかくいうと何かと問題になる」。こうグチるほど、賛否こもごも大変な反響でした。「殉死」には、乃木の軍事能力について「ほとんど無能に近かった」といった表現が再三出てきます。乃木を名将だと思っていた人たちは、びっくりしました。読売新聞の文化欄に「乃木将軍は無能ではない」と反論したのが、今村均陸軍大将です。今村は太平洋戦争でインドネシアのジャワ島を占領すると、シンガポールのような弾圧政策を取らず、中央から「日本軍の威信に関わる。もっと厳しくしろ」。こんなクレームがついたほど、大変穏やかな軍政を敷いた人です。そして戦後の戦犯裁判で禁固刑を受けると、自ら志願して部下のいるマヌス島で服役したと云う、実にさわやかな生き方を貫いた軍人でした。その今村は「旅順の苦戦は参謀本部に原因がある」と云うのです。「一挙に攻めろという参謀本部の要求に沿って、第三軍の参謀長が作戦計画を立てている以上、軍司令官の乃木としては容易に訂正しにくかったろう。むしろあれだけの犠牲を出しながら、最後まで将兵の気持ちを一つにまとめて戦い通せたのは、乃木の人徳である」と云っています。いわば多くの「乃木ファン」の気持ちを代弁したものでした。

 

 それでは日本の陸軍は、この旅順の戦いをどう分析し、どう記録として残しているのでしょうか。参謀本部が編纂したものに、「明治三十七八年日露戦史」があります。完成が大正三年と、足かけ八年もかかった前後十巻の大変膨大なものですが、司馬さんに云わせると、「これほど不思議な歴史書は、ちょっと見当たらない」。実に克明に詳細に書いてあるのに、まるで煙でも掴むみたいに、戦争の実体がよくわからないと云うのです。と云いますのも、この編纂作業と並行して論功行賞、将軍たちがどう働いたかを査定し、勲章や爵位を授ける作業が進められていたのです。将軍のほとんどは軍の高級幹部として現役ですから、戦史に少しでもよく書いてもらおうと、いろいろ圧力がかかってきます。

 

 乃木は日清戦争で男爵になり、日露戦争では子爵を通り越して伯爵です。第三軍参謀長の薩摩出身伊地知事介少将は、戦争が終わった時中将になっていましたから、中将以上という爵位の規定に従って男爵になりました。当時の陸軍部内で「伊地知の無能無策で無用に兵を殺した」と云うのは定評だったと云われますが、だからといって「伊地知の男爵はダメだ」とすれば、乃木にも傷がついて伯爵に出来ません。論功行賞で手柄があるとしたのに、陸軍の公の戦史にそれを否定するようなことは書けません。勢い当たらずさわらず、八方美人的な書き方になり、失敗のない戦史が出来上がってしまったのです。

 

 実は司馬さんの「殉死」と相前後して、「機密日露戦史」という本が出版されています。これは支那事変の南京虐殺事件での責任を問われて現地裁判で死刑になった谷寿夫中将が大正十四年、陸軍大学校の教官時代に学生に講義したガリ版刷り十二冊の講義録をまとめたものです。未公開の軍事秘密資料をふんだんに使い、関係者の生々しい証言を集めた貴重な戦史で、旅順についても失敗の異相を明らかにしています。「極秘」の扱いで、陸軍でもごく限られた人しか内容を知りませんでしたが、こうした資料が早くから公開されていたら、「戦えば必ず勝つ」といった軍隊神話、「神の国だから絶対負けない」といった馬鹿げた思い上がりは、生まれなかったように思います。

 

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「旅順と乃木希典」講演録全文
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「旅順と乃木希典」配布資料(メモ)
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「旅順と乃木希典」配布資料(年表)
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