第50回 広島、長崎への原爆投下


 広島にとって運命の日、昭和二十年八月六日は朝から快晴、澄み切った空には真夏の陽光が輝いていました。今年もそうですが、この年も台風の当たり年で、八月だけでも八個発生し、そのうち五個が本土に上陸または接近、広島も四日までは、硫黄島南方洋上に発生した台風八号の影響で雨模様だったのです。台風が 朝鮮半島へ抜けた五日から天候は回復し、それまで異様に低かった気温も真夏の暑さに戻っていました。月曜の朝の八時十五分は、ちようど通勤の時間帯です。 広島駅や市電、市バスの停留所には人々の行列が出来ていましたし、街頭ではも う勤労動員の学生や国民義勇隊による、建物強制疎開の取り壊し作業も始まっていました。ほとんどがワイシャツ姿、みんな袖をまくり上げていました。原子爆 弾は、まさにこの時間に炸裂したのです。

 広島は、本土決戦に備えて西日本の陸軍を統括する第二総軍司令部をはじめ、 第五師団、中国軍管区司令部のある軍都です。市南部の宇品港からは、日清、日露戦争以来、外征軍はみんなここから出ていったものでした。それなのに三月、 四月に少数機の空襲があっただけで、死傷者もわずか十数人しか出ていません。 日本の主要都市は大半が焼け野原になり、軍港のある呉市も六月から七月にかけ ての空襲で、壊滅状態になっていました。三十三万六千の広島市民は、なぜ広島が爆撃されないのか、不思議に思っていましたし、反面、いつやられるのかと、 不安な気持ちでいっぱいだったと言います。

 六日の朝、中国軍管区司令部は、 「豊後水道を敵大型機三機北上中」。この情報に基づき午前七時九分、替戒警報を発令しましたが、間もなく播磨灘方面に去ったので三十一分に解除していました。ところが八時六分、広島東方八十キロにあ る防空監視哨が、西に進んでいるB29二機を発見したのです。軍管区司令部がこの報告を受けたのは八時十一分、空襲警報は間に合いませんでした。ですから広島市民は、一万メートルの高空に現われたB29をほとんど気にもとめませんでしたし、 防空壕に避難する者もなく、全くの不意打ちになってしまったのです。

 目撃者の話では、B29が二機編隊で進入して来て、午前八時十五分、高度九千メートルから投下された原爆は、五十秒後に市中心部の大手町 一丁目付近、高度五百八十メートルで爆発しました。投弾と同時に、二機は急角度で左右に別れ、被爆を避けるためでしよう。高度を下げて、全速力で爆心から遠ざかっています。投弾したのは一機だけで、他の一機からはほぼ同時に落下傘三個が投下されましたが、海軍の調査団が回収して調べたところ、気圧測定器で、電波発信装置もついていて、 気圧の変化に応じてコンデンサーの容量が変化し、発信電波が変わるようになっ ていたそうです。米軍は遠い基地にいながら、気圧の変化曲線で原爆破裂による気圧の変化まで測定していたわけです。

 約二トンのウラニウム二三五によって、直径百メートル、表面温度実に一万度という巨大な火の球から、閃光、爆風、そして放射能が、一瞬のうちに人々を襲ったのです。TNT火薬にして二万トンに相当するエネルギーに、広島市内は押し潰され、 各所で火災が発生して火災嵐を巻き起こしました。当初は風速五メートルほどだったのが、二、三時間後には四十メートルから五十メートルに達し、灼熱地獄になっていきました。 キノコ雲が高さ一万五千メートルまで上昇し、油のような黒い雨がどこからともなく降 ってきて、着ているワイシャツなどに黒い斑点を作りました。原爆のチリで出来たキノコ雲が、凝縮して雨となったのです。そして、この雨に打たれた人たちが原爆症を発病し、広島生まれの作家井伏鱒二の名作「黒い雨」を生むことになります。焼け残った小学校、公園、川っぶちなどには、自然と負傷者が集まって来て、臨時の救護所となりましたが、市内に三百人いたお医者さんのうち六十人が即死、医療活動に当たることが出来たのは三十人ほどだったと言われます。次々と押し掛けて来る負傷者に、とても救護の手が回らず、辛うじて歩ける被爆者たちは、ただ郊外へ郊外へと逃れて行ったのです。

 中国新聞社のカメラマン松重美人は、爆心からニ・七キロほど南東の自宅で被爆 しましたが、崩れて部屋一面に盛り上がった壁土の中からカメラを掘り出し、予備フイルム一本を持って家を出ました。まず社へ行こうとしたのですが、市役所一帯は火の海、巨大な炎がうなりを立て、竜巻となって前へ進めません。死臭の漂う静けさ、それを切り裂く怒号と絶叫、累々と横たわる死体、人々が幽鬼のよ うにさまよっていたと言います。御幸橘に引き返すと、そこには猛火を逃れて来 た負傷者が群れをなしていました。派出所の前では、二人の警察官が食用油を塗って応急手当てをしています。路上から橘の上は、断末魔の負傷者でびっしり。「よし、ここで撮ろう」。首にかけていたカメラに手をかけましたが、地獄のよ うな光景に、シャツターを切る指が動きません。やっとの思いでシャッターを切 り、十歩ほど近付いて二枚目を撮りましたが、「頰に涙が流れ、ファインダーの画面がうるんでいたのが、今も私の脳裏から消えない」。松重は、その手記「カメラマンの証言」に、こう書いています。

 

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