第7回 明治の言論

 明治三十年代、日露戦争をはさんだ十年ほどは、この前にもこの後にもない、言論の大らかな時代でした。与謝野晶子が「君死にたまふこと勿れ」と歌い、新聞や議会が「軍の作戦がおかしいから、こんなことになったんだ」と、軍の作戦ミスを非難、攻撃したのです。太平洋戦争の頃を少しでも知っていらっしゃる方なら、とても想像できないことだと思いますが、もちろんこんな言論の自由は天から降ってきたものではありません。それどころか、それまでは凄まじいばかりの弾圧と抵抗の歴史だったのです。きょうは、新聞がどのようにして自由を勝ち取り、またなぜそれを失うことになったのか――新聞の発達と、明治の時代の移り変わりを重ね合わせながら話してみたいと思います。

 

 慶応四年一月三日、鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争は、王政復古と明治維新という大きな時代転換を果たしましたが、この慶応四年はまた、日本の近代新聞誕生の年ともなったのです。天下は官軍と幕府側に二分されで民心は極度に動揺し、人々は戦況がどうなるのか、政治がどう動いて行くのか、争ってニュースを求めました。その頃の庶民にニュース伝達機関といえば、皆さんもご存じのように一枚刷りの瓦版でしたが、江戸、横浜、京都、大阪、長崎などに、ニュースを中心とした「新聞」 と称するものが続々と現われたのです。発行は三日か五日ごとの定期刊行で、印刷も木版彫刻刷りの初歩的なものでしたが、官軍が四月十一日に江戸へ入ってみると、当然のことながら佐幕派の新聞ばかりです。新政府は早速書籍・出版物の許可制を布告しましたが、さっぱり威令が徹底しません。そこで六月八日、新聞の私刊、勝手に出すことを禁止し、版木も没収しましたから、新聞は江戸からほとんど姿を消すことになったのです。

 

 九月八日、慶応四年は明治元年と改元され、十月十三日、明治天皇が皇居となった江戸城に入って、ここに明治の幕が開かれました。ところが新政府にとって頭が痛いのは、新聞を事実上禁止してしまったため、流言蜚語が飛び交い政策も徹底しないことです。これは新聞を利用した方がいいと、明治二年二月八日、新聞紙印行条令というものを出して、印行というのは印刷し発行することですが、新聞の発行を進んで許可することにしたのです。条令で「新聞は人の知識の啓発を目的とし、頑固偏狭の心を破って文明開化に導け」。こう謳っているように、政府は情報を優先的に提供して便宜を図り、政府奨励金の給付とか、官庁や官吏にも新聞を講読するよう勧めましたし、政府が新聞を買い上げて各府県に配るといった、新聞奨励の優遇策をとりました。

 

 新聞の方も、政府の新政策を謳歌し、維新の変革や外国の文化を紹介して、「文明開化の旗手」としての役割を果たしていったのです。今でこそ「御用新聞」とか「御用記者」は、言論界では軽蔑以外の何ものでもない、一番嫌われる吉葉ですが、当時は政府御用を務めることは政府の保証を意味し、世間の借用を集める何よりの看板でした。どの新聞もこのお墨付きを得ようと懸命になりましたし、明治五年二月に創刊された東京日日新聞、現在の毎日新聞ですが、「太政官御用」を命じられると一面トップで伝えたほど、政府の上意下達の一翼を担うことを誇りとしていたのです。政府と新聞の空前の「蜜月時代」だった、こう言ってもいいでしょう。

 

 明治政府の中央集権体制も着々と整っていきました。明治四年七月、廃藩置県が断行され、東京、京都、大阪の三府四百二県となりましたが、「封建制度は親の仇でござる」と言った福沢諭吉は、友人への手紙に「一身にて二生を経るが如し」、まるで一生で二つの人生を生きる思いだ、と感激しています。五年十一月には「太陰暦を廃し太陽暦を採用する」の詔勅が出て、十二月三日を六年の一月一日としたのです。「昨日は師走の朔日だというのに、三日にはもう正月が来る。一日で三十日の働きをせねばならぬのか」――こんな徳川の時代を懐かしがる声も聞かれましたし、新聞には暦の切り替えをめぐる悲喜劇も載っています。備中の国で、商人が息子に嫁をとろうと九月のある日を婚礼日に決めました。ところが新婦の行列が提灯を明々とつけてやって来ると、商人の家は門を閉ざして寝込んでいます。叩き起こされて商人は驚きましたが「返すのは忌み言葉だ」と、新聞は眉間のシワをのし昆布にして、こんな表現でどうにか事を納めたと書いていますが、商人は旧暦で約束し、新婦の方は新暦だと思い込んでいたんだそうです。

 

 この改暦は、欧米諸国がみんな太陽暦なのに、日本だけが太陰暦では商取引など万事不便なこともありましたが、それ以上に新政府の苦しい台所事情があったのです。当時大蔵卿をしていた大隈重信が話しているのですが、閏年は二年半ごとにやって来て、役人の月給も十三か月分払わなければなりません。二年ずつ貯金して、その年の用意に充てていましたが大変でした。明治六年がまたも閏なので、その年がやって来ないうちにやってしまえと、急いで改暦を実行したんだそうです。大隈はこう回想しています。「今日のように社会組織が秩序立っては、なかなかちょっとの改革も困難である。むしろ不可能かも知れんが、あの当時の如き過渡期なればこそ、どさくさ紛れ、何でも彼でも改革変更が実行出来たのであろう」。本当に、その通りだったでしょう。大隈は九年三月には七曜制を採用し、官庁を日曜全休、土曜半休とします。若い頃長崎でアメリカ人宣教師フルベッキに学んだので、何か西洋流の改革をやるとすぐ「ヤソくさい」と非難されたそうですが、大隈が一番光り輝いていたのは、方向性といいその実行力といい、この参議時代だったように思います。

 

 明治維新というのは、政治革命であったのと同時に、社会的に見るとコミュニケーション革命でもありました。その頂点が明治五年で、四月二十日に東京-大阪間に電信が開通し、七月一日に全国で郵便制施行、九月十三日には新橋-横浜間の鉄道が開業しました。国民が文明開化の名前で一番恩恵に浴したのは、恐らくこの分野だったでしょう。横浜から新宮町の守田座へ芝居を見に行くのに、電信で桟敷か土間を予約し、朝八時の汽車で新橋まで来て、九時頃には守田座に着いてしまう。行程八里なのに神田近辺から来る者より早い。打ち出し後にまた汽車で横浜へ帰り、新聞は「その自在実に駕くべく感ずべき事なり」と、驚きの目を見張っています。そうかと思えば、東京見物に出て来た田舎紳士が、辻々に柱箱が建ててって、白字で「郵便」、投函口に「差入口」と書いてある。ところがこれを「垂れ便」、「便所」と間違えて、それにしては差入口が余りに狭すぎると考え込んでしまったとか。電信はテレガラフと呼んでいましたが、遠くへ物を運ぶと聞いて弁当箱を電線に結びつけたとか、いつ電報がその電線を通るのかと、腰弁当持参で一日中見張っていたとか。当時の新聞には、こんな笑い話がいっぱい載っています。

 

 六年一月十日には徴兵令が布告され、常備軍制度が確立しました。都会で行き交う人もザンギリ頭が普通になりましたが、この頃になると開化から取り残された不平士族の動向が険悪になってきました。また開化のための費用、地租など負担の増大を強いられた農民の間で、「今度は働き手まで奪うのか」と、農民一揆がたびたび起こるようになったのです。政府は十月十九日、新聞紙発行条目を公布して、新聞が扇動したりしないよう、守るべき規定を定めています。国体を誹謗したり、政治や法律の記事を掲載する際、妄りに評論を加えることを禁じてはいますが、まだこの段階で重視したのは、発行の年月日とか、印刷地、編集者の名前を記載しろといった、手続き上の形式的なことでした。それが新聞と政府の間が一辺に対立関係になり、「蜜月時代」にピリオドが打たれたのは、実は明治七年一月十七日、前参議の板垣退助ら八人が政府に提出した「民撰議院設立」 の建白書だったのです。

 

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