第12回 軍部と大正政変

 大正時代というと、どうでしょうか。大正天皇が病気がちで、在位期間十五年と短かった。そんなこともあって、明治の四十五年、昭和の六十三年に挟まれた「谷間の時代」といった感じがあります。太平洋戦争で一番多くの犠牲者を出したのも、この大正世代でした。大正の未に流行った「おれは川原の枯れすすき」とか「寵の鳥」といった、やるせない、もの悲しい響きの歌のせいでしょうか。何となく暗い、沈滞したイメージを連想します。ところがどうして大正時代は、どこにそんなエネルギーがあったのかと思うほど、大変たくましく、また多様な可能性を秘めた時代だったのです。

 

 それを象徴する出来事が、これからお話する「大正政変」です。「大正政変」というのは、大正元年十二月から翌年の二月にかけて、わずか二か月余りの間に二つの内閣が倒れてしまった――この内閣史上、前代未聞の政変劇ですが、明治天皇が亡くなり元号が大正に改まると、陸軍は二個師団、約五万人の兵力増強を強硬に要求してきました。ロシアの復嘗戦に備えるため、どうしても必要だというのです。日露戦争に勝ったとはいえ、日本は外国から莫大な借金をしています。政友会の第二次西園寺公望内閣の時ですが、「財政上とても無理だ」とはねつけると陸軍大臣が単独で辞職してしまったのです。陸軍の要求を容れない内閣には、後任の大臣を送らない。陸軍大臣がいなくては、内閣を作れません。「軍部大臣現役武官制」、「陸海軍大臣は現役の大将、中将に限る」という既定を盾にとって、陸軍が内閣を倒した最初の例となりました。この規定は、いわば軍部が内閣の喉元に突き付けたヒ首のようなもので、軍部の言うことをきかないと何も出来ない。昭和に入って、軍事が政治を左右する悪例を作ったのです。

 

 代わった長州出身、陸軍大将の第三次桂太郎内閣も、「憲政擁護、閥族打破」の国民の大合唱の前に、わずか五十三日、内閣史上最短の記録であっけなく崩壊してしまいました。閥族というのは、師団増設要求をご.り押しして西園寺内閣を倒した長州閥と陸軍のことです。しかも、内大臣兼侍従長として天皇の日常的な補佐役を務めていた桂が、宮中を出て首相になるのに、天皇から「お前、頼むぞ」と詔勅を出して貰いました。自分の都合のいいように天皇の詔勅を利用したんでは、立恵政治、憲法に基づいた立意政治の土台が台無しになってしまう。「憲政を守れ」と、新聞と政党が先頭に立ったのです。こちらは、世論、民衆の力が内た新聞が、逆に政党のシリを叩いて世論を呼び起こし、言論機関としての地位を確立した第一歩でもありした。また、政党が大きな力を持つようになり、政党政治の出発点になった点でも、画期的な出来事だったのです。

 

 明治天皇の死が、明治の人々にとってどれほど衝撃的なことだったか。 明治四十五年七月二十日、突然官報号外が発行され、天皇が尿毒症で重体であることが伝えられたのです。とたんに東京株式市場は大暴落し、警視庁は両国の川開きを中止させました。市電は電車の音が天皇の容体に障ってはいけないと、お堀端のレールにポロを布いて息をひそめるように徐行運転し、宮城前には平癒を祈る国民が続々と押し掛けました。宮内省は七月三十日、「午前零時四十三分に崩御された」と公式に発表しましたが、内務大臣原敬の日記によると、実際は前日の二十九日午後十時四十分だったようです。「原敬日記」は全巻八十二冊。十九歳の明治八年から六十五歳で暗殺される大正十年まで、明治・大正の政治史を知る上で大変貴重な資料ですが、原は「践辞の御式等挙行の時間なき為めならん」と書いています。そして大正新時代と共に、西園寺内閣と元老山県有朋との政治感覚の違い、対立が次第に表面化して来るようになるのです。

 

 ご大喪は青山葬場で九月十三日に行なわれることになり、政府は経費を追加予算の形で支出するため、臨時議会を召集して承認を求めることにしました。ところが開院式の勅語案に、山県からクレームがついたのです。内閣側で用意したのは、「朕新二大統ヲ継キ祖宗ノ威霊卜臣民ノ忠良トこ侍り先帝ノ遺業ヲ失墜セサラン事ヲ期ス」――こうなっていたんですが、「臣民ノ忠良卜二侍り」が削られました。西園寺内閣が異例とも言える措置で、天皇の容体をその都度発表したのも「国民は天皇と共にある」。この思いからだったのですが、山県は、天皇が臣民の忠良に支えられているとのイメージを嫌ったのでしょう。原は「元老がかくの如き大事に国民の参加を好まないのだ」と書いていますが、時代は新しい変化、現状打破を求めて動きつつあったのです。

 

 大阪朝日新聞の論説記者丸山幹治、政治学者丸山真男さんのお父さんですが、大正二年元日付の新聞に「吾人は何故となく新時代の気配を感ず」と書いています。明治の人たちは、近代国家を目指して「西欧文明に追い付き、追い越せ」と一生懸命でした。日清、日露の大戦争にも、歯を食い縛って頑張ってきました。それが明治の終わりと共に、そうしたがんじがらめの束縛が解けて、精神的な自由を求める空気が出てきたのです。読売新聞の社説には、「大正国民の覚悟」と題してこうあります。「明治の文明は形式の文明だった。教育もそうだし、憲法も未だ形式の完備を成し遂げたに過ぎなかった」。そして「実質的に立憲国民たるの証左を示すのは、大正国民われわれの責任である」と訴えています。大正時代は、まさにそんな雰囲気で明け、「大正政変」もまた、そんな中で生まれていったのです。

 

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「軍部と大正政変」講演録全文
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