第2回 日露戦争と情報

 きょうは情報というものを軸にして、日露戦争について話してみたいと思います。日露戦争と太平洋戦争では、一体何が違ったのか。私は一つは、情報を大切にしたかどうかの違いが、大きかったと思います。明治の元老たちは、明治三十五年一月、日英同盟を結んだ時でも、伊藤博文にしろ井上馨にしろ、小うるさいくらいに、いろいろと注文をつけています。外務大臣の小村寿太郎は「本来外交というものは、外交より内交、国内の交渉事の方が難しいものだ」と云ったそうですが、日本の安全には、イギリスと同盟した方がいいのか、それともロシアと妥協した方がいいのか。意見に違いこそあれ、彼らは共通の情報を土台にして真剣に論議したのです。そして、そこから組み立てた政略、戦略に、最高の人材を当てて戦ったのが日露戦争でした。

 

 太平洋戦争の時は違います。情報がどこかで止まってしまって、最高首脳の総合判断に全くと云っていいほど生かされないのです。しかも国際情勢の認識が極めて自分本位で、何でも日本に有利なように、都合よく解釈してしまったことです。これは元首相の若槻礼次郎が回顧録に書いているのですが、アメリカからいわゆる「ハル・ノート」を突き付けられ、首相経験者を集めた重臣会議が開かれました。日米開戦の九日前、昭和十六年十一月二十九日のことですが、首相の東条英機は「とうてい受諾出来ない」の一点張り。ハル・ノートの内容を仔細に検討して、重臣たちに意見を求めると云うのではなく、「開戦はもう当然」といった態度だったそうです。若槻が「戦争半ばに石油が不足するようなことがあったら、どうして戦争を遂行出来るのか」。日本にとって最大の問題点を指摘しても、「石油は決して不足しない。心配には及ばぬ」と強弁するだけでした。

 

 重臣会議は開戦後も毎月一回開かれ、東条首相が戦況報告をするのですが、内容は「勝った、勝った」と新聞に出ているものとほとんど同じ。若槻が一番気掛かりな石油について質しても、戦略物資を担当する企画院総裁の答えが、「日本国民に愛国心のある以上、必ず出来る」。量的な見通しを聞いているのに、忠義な国民さえいれば何でも出来ると、精神力で答えてくるのですから話になりません。重臣たちのお知恵拝借どころか、情報は全く与えずに「黙ってついてこい」といった、お座成りの重臣会議でした。十九年七月にサイパン島が陥落して東条内閣が倒れ、代わって首相になった小磯国昭は、戦争の状態が余りにもひどいのでびっくりしたと云います。予備役とはいえ陸軍大将、直前まで朝鮮総督をしていて、この程度の認識です。いかにキチンとした情報が流れず、情報音痴の中での戦争であったかが分かります。

 

 昭和十八年のことですが、代議士中野正剛は元日付け朝日新聞に有名な「戦時宰相論」を書いて、東条首相を批判しました。中野は日露戦争の時の桂太郎内閣を例に挙げ、人材の登用を訴えたのです。中野に言わせると、桂は寧ろ貫禄のない首相だった。元老の山県有朋に頭が上がらず、井上馨に叱られ、伊藤博文を奉る。それでいて外務大臣に小村寿太郎、海軍大臣に山本権兵衛など、幾多の人材を活用した。戦時下の宰相は強くなければならないが、個人の強さには限界がある。桂自体は小粒の人でも、心の奥底に誠忠と謹慎、桂に身を慎む気持ちがあったから、それが「あの大幅で、余すところなき人材の動員になった」と云うのです。

 

 朝日新聞がこの企画を取り上げたのは、「勝った、勝った」 の大本営発表に浮かれている時ではない。戦時体制はいかにあるべきか、国内の政治体制をもう一度検討して見る必要はないか。こういう考えで中野に執筆を依頼すると、中野は「東条に謹慎を求めるんだ」と云って、四十分で書き上げたのだそうです。言論統制の厳しい時代です。よくも一字一旬削らずに、事前検閲を通ったものだと思いますが、どうも検閲当局は、この論文を東条に対する激励だと受け取ったようです。東条と云う人は真面目で、官僚的な事務能力には優れていたようですが、大局を見て一国を引っ張っていく、見識と云う点ではお粗末だったように患います。お前は小粒の人間だから、せめて人材を登用しろ。こう云われたと思ったのです。東条自ら情報局を呼び出し、朝日新聞の発売禁止を命じましたが、当時の縮刷版を見ますと、この記事は全部削除されて別の記事で埋めてあります。しかし実際の新聞の方は、もうとっくに配達ずみで、発禁処分はほとんど効果がなかったようです。

 

 中野はふだんから「一切を天皇と祖国に捧げん」と云っていたように、反東条ではあったが、決して反軍でも反戦でもありませんでした。思想的には革新右翼でしたが、翼賛選挙で推薦を拒否して最高点当選するなど、東条に敵対する姿勢を見せましたから、東条には目障りな存在だったのでしょう。「中野は常に政府に反対の言論行動をしている。平時ならともかく、戦時においては、こうした言動は利敵罪、敵を利する罪を構成する」。こんな難癖をつけて、憲兵隊に中野を検挙させたのですが、いくら何でもこれで起訴するのは無理です。しかし中野は憲兵隊から釈放された夜、日本刀で割腹自殺したのです。憲兵に死を迫られたのか、真相は未だにはっきりしないのですが、東条に対する壮絶な抵抗であったことだけは確かです。

 

 その頃の東条は、陸軍大臣、参謀総長に軍需大臣、一時は内務大臣まで兼務して、権力を一手に握っていました。つまり情報をトップに集中できる立場にいたわけですが、情報を重視した形跡は全くといってよいほどありません。具合の悪いマイナス情報は、下が上の顔色を見て上げてきません。都合のいい情報を基に希望的観測だけで戦ったのが、太平洋戦争だったのではないでしょうか。その点日露戦争の指導者たちは、日本の実力、世界の情勢について、ほぼ共通の認識を持っていました。その認識を基に情報を集め、政略、戦略に起用した人たちが見事に期待に応える。勿論ミス・キャストもあったし、情報ミスもありました。しかしトータルで見れば、日露戦争は情報の勝利だったと思うのです。

 

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