第20回 満州事変と若槻礼次郎内閣

 昭和という時代は、「陸軍の謀略と共に始まった」と云われています。まず昭和三年六月の張作霖爆殺事件です。奉天軍閥の首領である張作霖が満州を事実上支配し、一時は北京に進出するほどの大きな力をつけたのは、日本の後押しがあったからでした。それが、だんだん日本の云うことを聞かなくなってきて、このままでは日本が日露戦争で獲得した南満州の権益がおかしくなる。そう思った関東軍高級参謀の河本大作大佐が、張作霖の乗っていた列車を爆破し、満州を一挙に武力占領しようとした事件です。そして支那事変、太平洋戦争と、日本を「戦争の昭和」 へ駆り立てる十五年戦争の出発点となったのが、これからお話する満州事変です。

 

 昭和六年九月十八日の夜、奉天郊外で日本が経営する南満州鉄道会社、満鉄の線路が爆破されたのです。現場は奉天駅から北へ約七㌔の柳条湖で、「張作霖の後を継いだ息子の張学良の軍隊の犯行で、日本の鉄道守備隊との間で戦闘になった」。これが陸軍当局の発表でした。この柳条湖は、戦後も長いこと「柳条溝事件」と溝と云う字が使われてきましたが、これは陸軍省が発表の際に間違えてしまったためで、正しくは湖と書いた柳条湖です。この発表では「暴戻なる支那軍隊」と云う言葉が使われました。乱暴で非道なという意味ですが、それからの新聞には連日、まるで枕言葉のように「暴戻支那」の大見出しが躍り、「暴支膺懲」、「乱暴な支那を懲らしめよ」。こう云った国民の声に押され、関東軍はそれこそ電光石火、三か月半後には全満州を占領してしまったのです。日本本土の三倍半に当たる面積です。

 

 軍部も国民も、この大成功に酔いました。何しろ昭和大恐慌の真っ只中です。空前の不景気で、町には失業者が溢れ、大学を出ても就職口がありません。農村は米価暴落で欠食児童、学校へお弁当を持っていけない子供や、娘の身売りが激増していました。八方塞がりで全く先が見えず、国中が暗澹とした気分になっているところへ、この満州事変の赫々たる戦果です。国民には、パッと光が射したように見えたのです。私が新聞記者になって最初に仙台の支局へ赴任した時、びっくりしたことがあります。昭和二十八年、空襲で丸焼けになった仙台が今みたいにきれいな街並みになっていない時でしたが、駅前の大通りが「多門通り」と云う名前なのです。満州事変で先陣を切って活躍したのが、多門二郎中将率いる仙台の第二師団でした。郷土師団が凱旋した時、仙台市民は総出で手に手に日の丸の旗を持って出迎えたと云われますが、敗戦後もなお「凱旋道路」として、かつての栄光の象徴である多門師団長の名前が残っていたのです。

 

 満州事変の二か月ほど前のことです。陸軍省軍務局長の小磯国昭少将、戦争中東条英機の後を受けて首相になった小磯ですが、新聞社の編集幹部との懇談会の席で、満州を独立させる必要性を強調しました。朝日新聞主筆の緒方竹虎、戦後自由党総裁になった緒方が、「時代錯誤も甚だしい。そんな荒療治は中国との全面衝突になるし、諸外国を敵にすることにもなる。そんなことに、今の若い者がついていくとは思えない」。こう云って強く反駁すると、小磯は「なあに、日本人は戦争が好きだから、一度鉄砲を撃ってしまったら、後は必ずついてくる」とうそぶいたと云うのです。

 

 残念ながら戦争と云うものは、国民の愛国心を掻きたてますし、マスコミも活気づけます。満州事変はまさに、小磯の読み通りに展開したのです。NHKのラジオ放送が始まったのは大正十四年七月ですが、臨時ニュース第一号がこの満州事変でした。十九日午前六時半'早朝に流れた事変勃発の第一報は国民をびっくりさせましたが、同時に新聞社もあわてさせました。NHKの受信世帯はすでに百万を越えており、しかもニュースが新聞よりも先にどんどん流れてしまうのです。新聞社の圧力で通信社がNHKへのニュース配備をストップしたため、NHKは自前でニュースを作らなければならなくなり、放送記者を養成するようになったのです。十九日の朝刊で事変勃発をただ一社だけ特落ちした都新聞、現在の束京中日新聞は部数が半減してしまったそうです。

 

 戦争報道は、それほど大きな力を持っていたのです。上越線が九月一日に開通したばかりで、東京の新聞各社が新潟県進出にしのぎを削っている時でした。満州事変は読者獲得には絶好の材料です。各社は満州に続々と特派員を送り込み、事変の速報に力を入れたのです。私のおりました読売新聞は、当時部数二十七万部。関束中心のちっちゃなブロック紙で、夕刊を出していません。各社の夕刊に載った事変の記事を、朝刊で後追いをするしかないのですから、部数はみるみる二千、三千と減っていきました。社長正力松太郎の決断で夕刊発行に踏み切ったのですが、経営状態がまだまだ不安定な時です。社員たちが「自殺行為だ」と云って,夕刊を止めるよう正力に直訴したと云う話が残っていますが、部数の方はそれから十万、二十万単位で増えていったのです。今日一千万部を超える部数は、まさに満州事変がスタートでした。「新聞が戦争を煽った」と云われるのも、こうした軍部に追随的な新聞社の戦争報道にあったことは否めません。ただ当時の新聞も国民も、「日本の軍隊は正義の軍隊だ」。こう信じ切っていましたから、この満州事変も当然、鉄道を爆破され、自衛のための正義の戦いだ。まさか満鉄爆破が関東軍の謀略だとは、思ってもいなかったのです。

 

 この満州事変謀略の筋書きを作って実行に移した人物こそ、「陸軍切っての頭脳」と誰われた関東軍作戦主任参謀の石原莞爾中佐です。いま日本では少子高齢化、子供の数が少ないことが大きな社会問題になっていますが、七十三年前は逆に人口が毎年百万単位で増えていて、議会で「和歌山県が毎年一県ずつ増えている。国土ならいいが人口だけだ。どうするのか」。こんな質問が出るほど、不景気の中での人口激増が悩みのタネになっていたのです。石原は前々から「満州、蒙古の満蒙問題を解決することは、人口、食糧問題に行き詰まって、国内不安に悩んでいる日本にとっては唯一の生きる道だ」。しかも「それは満蒙を日本の領土にすることで、初めて解決出来る」。こう考えていましたし、また独特の戦争観も持っていました。日ソ戦が近い将来に発生し、日本がこれに勝ったとき、ヨーロッパを制覇したアメリカとの世界最終戦争になると云うのです。石原はそれに備えるためにも、資源の豊富な満蒙を日本の兵站基地にしなければならないとしていました。事変の四か月前には、「謀略により機会を作成し、軍部が主動となり、国家を強引する」。こう云う方針を立てていたのです。「国家を強引する」とは、たとえ政府や軍中央の反対があっても、満蒙を日本の領土にしてしまう。国家をそこへ、強引に引っ張っていこうと云うことです。

 

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