第30回 日独伊三国同盟と第二次近衛内閣

 日本が太平洋戦争に突入する運命は、一年四か月以上も前、昭和十五年七月二十二日に成立した第二次近衛文麿内閣によって決まってしまった。こう言っても、いいでのではないでしょうか。まず第一に、二か月後の九月二十七日、日独伊三国同盟を締結したことです。この軍事同盟によって、日本は現にヨーロッパで戦争しているドイツ、イタリアと結び、アメリカ、イギリスに敵対する態度をはっきりさせてしまいました。日本は、石油をはじめ鉄など重要資源のほとんどを、米英に依存しています。米英の経済圏に入ることよって生存出来るんだという、この一番肝心な基本条件を忘れて、アメリカを敵に回してしまったのです。第二の問題は、北部仏印に進駐して、これらの資源を南方に求める、武力南進の姿勢を示したことです。この後、日米交渉により何とか打開を図ろうとしても、日米開戦が止められなくなる。政治的に引き返すことの出来ない、ほとんどの布石が、この第二次近衛内閣成立の時点でもう終わってしまったのです。

 昭和六年九月の満州事変以来、日本の外交は陸軍のペースで進められて来ました。「統帥権独立」を盾に、軍事行動については総理大臣といえども介入を許さず、その後始末に汲々とするのが日本外交姿勢でした。さらに日本の外交にとって不幸だったのは、国家としての長期的な指導方針が確立されていなかったことです。このため、その時々の首相、外相による「その都度外交」になってしまったのです。支那事変がそうでしたし、対米英、対ドイツ外交にしてもそうでした。陸軍が主導権を握った外交は、勢い実力行使をちらつかせる「こわもて外交」となり、外交本来の手段である妥協やギブ・アンド・テイクの原則が棄てられてしまいました。これが時と共に敵を多くし、日本が国際的に孤立する原因ともなったのです。

 そして、いつも希望的な観測、こうなって欲しいという期待感が、肝心な場面で、冷静であるべき外交判断の目を曇らせてしまいました。判断ミスの最たるものが、ドイツ勝利を信じてしまったことでしょう。昭和十五年四月から始まったドイツ軍電撃作戦の華々しさに幻惑され、オランダ、ベルギーに続いてフランスが降伏すると、ドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は間もなく行なわれ、大英帝国は崩壊するだろう。そう思い込んでしまったのです。日独伊三国同盟と南進という、近衛内閣の二つの重要な国策の決定には「ドイツ勝利」が前掟となっていたのです。近衛首相が、強硬な外交を迫る陸軍を抑えるために、外務大臣に起用した松岡洋右、陸軍以上に強気で、がむしゃらとしか言い様のない松岡外交も大きな誤算でした。松岡は、三国同盟にソ連を加えて、この四国の強大な力で米英に対抗する。そうすれば、アメリカも簡単には対日戦争に踏み切れまい。その間に行き詰まっている日米関係を打開し、支那事変も解決出来るだろう。そう考えたのですが、この松岡構想もまた、ドイツ勝利だけではなく、昭和十四年八月二十三日に結ばれた独ソ不可侵条約によって、ドイツとソ連の親密な関係は続くだろう。この錯覚が前程になっていたのです。しかし、ドイツ軍はイギリス本土に上陸出来なかったし、それどころか翌年の十六年六月には独ソ戦争が勃発してしまいました。この前提が崩れれば、日米戦争が避けられなくなる必然性があったわけです。ドイツ過信からくる判断ミス、ここに日本の大きな不幸がありました。

 日本とドイツの間は、独ソ不可侵条約という突然の裏切りで、一時的には冷え切ったものになっていました。日本に従来の日独防共協定を強化して、三国同盟を結ぼうと働きかけてきたのはドイツなのです。陸軍が大いに乗り気になって、何とか同盟を結ぼうと躍起になっている時に、そのドイツがソ連と握手してしまったのですから、防共協定そのものが全く無意味なものになってしまいました。さしもの「三国同盟論」も、シャボン玉のようにケシ飛んだはずだったのですが、これをあっという間に打ち消したのがドイツ軍の電撃的な勝利だったのです。昭和十五年四月九日にデンマーク、ノルウェーに侵攻し、デンマークはわずか三時間で降伏しました。北海を制圧して背後を安全にしたドイツ軍は、五月十日には戦車部隊と落下傘部隊を主力に、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクに攻め込みました。戦闘は一方的で、三国の首都はその日のうちに陥落しましたし、フランスが難攻不落と豪語していた要塞マジノ線もたちまち突破され、六月十四日にパリが陥落すると、フランスも二十二日に降伏したのです。

 国民の親独熱は再燃しましたし、マスコミも競ってムードを盛り上げました。日本国内は「バスに乗り遅れるな」の大合唱です。そして時の内閣、海軍の米内光政内閣を倒して、近衛内閣により三国同盟を結ぼうと、素早く動き出したのが陸軍でした。近衛の唱えている新体制運動も、陸軍の歓迎するところでした。「ドイツ勝利の根源は、ナチスの一党独裁体制にある」と、同じような一国一党組織を考えていたからです。もっとも近衛自身は、自殺の直前に書いた手記に 「内閣は統帥に操られる弱い造作に過ぎなかった」として、「既成政党とは異なった国民組織、全国民の間に根を張った組織と、その政治力を背景とした政府が成立して、初めて軍部を抑え、日支事変の解決が出来るとの結論に達した」。こう書いているように、国民世論をバックに軍部を抑えるための新体制運動だったと言うのです。しかし、道具立てだけは一生懸命でも、いざ実行となると、決断も実行力もないのがこの貴公子のスタイルなのですが、近衛が六月二十四日、「新体制確立のために微力を捧げたい」と声明して、枢密院議長を辞職すると、米内内閣倒閣運動に拍車がかかることになったのです。

 この間陸軍は、こうした世界情勢の急変に日本はどう対処すべきか- 「時局処理要綱」 の作成を急いでいましたが、七月四日、海軍側に陸軍の案を提示しました。「支那事変を解決すると共に、好機を捕捉して南方問題の解決に努める」という内容です。南方問題というのは、イギリス、フランス、オランダが東南アジアに持っている広大な植民地、そこには日本が欲しい石油や鉄、ゴム、錫といった重要資源が山ほどあります。本国支配が揺らいだスキに南方に進出し、日本の慢性的な資源不足を一挙に解消してしまおうというのです。提案説明をした参謀本部作戦課長の岡田重一大佐は、重大な発言をしています。「第一に、南方に武力を行使する場合には、独伊軍事同盟に入ることになる。第二に、強力な政治機構の確立については、少数閣僚主義がよい。外相には松岡洋右の実力を買っている。陸相には東条英機か山下奉文がよかろう」。つまり、陸軍はこの時点でもう「南進」と「三国同盟」をセットにするという、近衛内閣の重要国策から主要閣僚まで決めてしまっおり、全てはこの陸軍の目論み通りに展開されるのです。三国同盟に反対してきた米内が首相である限り、三国同盟も武力南進も出来ないことははっきりしています。そこで陸軍は、陸軍大臣の畑俊六に辞表を出させ、後任の大臣を送らないことで米内内閣を倒したのです。

 

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