第32回 独ソ戦勃発と南部仏印進駐

 日本が太平洋戦争に突入する運命を決定づけたのは、昭和十五年九月、第二次近衛文麿内閣の時でした。何といっても大きかったのが日独伊三国同盟を締結して、ヨーロッパで戦争をしているドイツ、イタリアと結び、アメリカ、イギリスと敵対する態度をはっきりさせてしまったことです。石油をはじめ鉄とかゴム、錫といった戦争遂行に欠かせない重要資源は、どれをとっても日本では全くか、あるいはほとんどと言っていいほど取れません。日本は米英の経済圏に入ることによって生存できるのに、ドイツ軍電撃作戦の華々しさに幻惑され、一番肝心なその基本条件を忘れてしまったのです。その上、北部仏印に進駐して、それらの資源を南方に求める、武力南進の態度を見せましたから、アメリカとの対立は深まるばかりでした。

 わずかに残っていたチャンス、日本を日米戦争から引き返すチャンスがあったとすれば、それはこれからお話する独ソ戦争の勃発だったと思います。昭和十六年六月二十二日から始まったこの戦争は、第二次世界大戦の戦略構造に革命的な変化をもたらすものでした。それまでは世界大戦と言っても、戦場はヨーロッパとアジアの一部に限られ、アメリカ、ソ連といった当時の超大国は一応局外に立っていたのです。それが不可侵条約を結んでいた独ソが戦争に入ったことで、ソ連を否応なしに米英の陣営に回す結果になり、「枢軸国対連合国」という第二次大戦の最終的な構図が、このとき出来上がってしまったのです。

 大体が外務大臣の松岡洋右が三国同盟に期待したのは、ソ連を仲間に入れることでした。昭和十六年四月に日ソ中立条約を結んだのも、ソ連を加えた四国同盟の力で米英に対抗し、最終的には行き詰っている日米関係を打開したい狙いだったのです。その四国同盟構想が独ソ戦によって一夜にして崩壊してしまったのですから、三毒同盟は存在価値を失ったも同然でした。しかもドイツは、背信行為の連続なんですね。十一年に日独防共協定を締結した時、「相互の同意なくしてソ連との間に一切の政治協定を結ばない」。こう約束していたのに、十四年には日本に何の断りもなく、一方的に不可侵条約を結んでしまいました。三国同盟の時も、「日ソ国交調整に努力する」と言っていたのに、仲介どころかソ連と戦争に入ってしまいました。さらに言えば、独ソ戦は同盟条約第五条の「三締約国とソ連との間に現存する政治的状態に何ら影響を及ぼさない」。この確約に違反する裏切りなのです。日本としては「約束と違う」と、三国同盟から離脱して大きく外交転換をさせる。アメリカとの関係改善に最大限の努力をする。この選択肢があったはずでした。ところが日本の政府や軍部の間で沸騰したのは、ドイツに呼応して北のソ連を撃つべきか、それともこの機会に南へ出て行った方がいいのか。北進か南進かの論議だけで、三国同盟離脱問題は論議らしい論議をされることもなく、日本は南部仏印進駐の道を選んでしまいます。これがアメリカの石油全面禁輸を呼び、日本はもう戦争しかないという袋小路に追い詰められていったのです。

 

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