第42回 サイパン陥落と東条英機内閣総辞職


 中部太平洋のマリアナ諸島サイパン島で、日本軍守備隊が玉砕したのは昭和十九年七月ですが、私が強烈な衝撃を受けたのは、何と言っても戦後公開されたア メリ力の記録映画を見た時でした。高さ百五十メートルのマッピ岬の断崖から、日本人女性が次々と宙に身を躍らせ、あるいはわが子をしっかり抱き抱えた母親が投身自殺をする。あの壮絶な場面を見た時です。サイパン島は太平洋戦争で初めて住民を巻き添えにした「玉砕の島」でしたが、それは米軍にとっても、「バンザイ・ クリフ」とか「シューサイド・クリフ」、「自殺の崖」と呼んだように、やはり衝撃的なことだつたのです。

 サイパン島は東京から南へ約ニ千キロ。南北十九・ニキロ、東西の横幅がニ・四キロから九・六キロの小さな火山島です。第一次世界大戦まではドイツ領でしたが、大正八年のベルサイユ講和条約で、カロリン、パラオ、マーシャル諸島と共に日本の委任統治領になった島です。砂糖キビ栽培や砂糖を作る製糖業を中心に、三万人近い日本人が定住していましたが、八割は気候風土のよく似た沖縄からの入植者でした。そして海軍は航空部隊の基地を置いて、「絶対国防圏」の最重要拠点と していたのです。

 絶対国防圏というのは、昭和十八年二月のガダルカナル撤退以来、戦局の悪化と共に広がりに広がった日本の防衛線は、破綻の危機に直面していました。そこ で大本営は九月二十五日、戦線を整理縮小してマリアナ諸島からカロリン諸島、西部ニューギニアを結ぶ線を第一線とする絶対国防圏を定め、その確保に全力を 挙げる方針を決定したのです。それより先の前線では極力持久戦態勢をとらせ、その間に絶対国防圏の防備態勢を整える。反撃戦力、特に航空兵力を強化して、 やって来る米軍に打撃を与え、その進攻企図を粉砕しようというものでした。

 ところが米軍の進攻は、日本の予想を越えてはるかに早かったのです。昭和十八年十一月二十四日、ギルバー卜諸島のマキン島、翌日のタラワ島に続いて、十九年二月六日にはマーシャル諸島のクェゼリン島守備隊が玉砕しました。そして十七日、連合艦隊の根拠地トラック島が空襲されて壊滅的な打撃を受け、絶対国防圏の決戦態勢を整える、その時間的余裕もないうちに、アメリカ機動部隊の脅威にさらされることになったのです。政府も急いでサイパン島の六十歳以上の老人や婦女子を本土に送還することにしましたが、輸送船が潜水艦に撃沈されて千人が犠牲になり、ほとんど送還出来ないうちに米軍上陸となってしまいました。

 アメリカ海兵隊二個師団六万七千人のサイパン島上陸作戦が始まったのは、昭和十九年六月十五日でした。迎え撃つ日本軍は、海軍部隊の一万五千人を入れて四万四千人。水際撃滅作戦をとって善戦はしたものの、防御陣地は上陸前の爆撃と艦砲射撃で完全に破壊され、圧倒的な砲爆撃にとてもかないません。大本営が 「難攻不落」と豪語していたサイパン島は七月七日、わずか二十二日間の戦闘で、 捕虜になった千人を除いて玉砕したのです。

 

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