第43回 レイテ決戦と小磯国昭内閣


 戦争中、二年九か月にわたって君臨してきた東条英機内閣が総辞職したのは、昭和十九年七月十八日でした。絶対国防圏の要衝、この線だけは絶対に守るとしてきたサイパン島の陥落が引き金となったのですが、二十二日には朝鮮総督の予備役陸軍大将小磯国昭内閣が成立しました。人権派弁護士として活躍した正木ひろしは日記に、「新内閣の出現は、神が日本を見捨てなかった証拠である。夜が白み始めた。説教〇〇が去った朝の、すがすがしい空気を感ずる」と書いていま す。説教〇〇と云うのは昭和の初め、東京都下で強盗に押し入っては家人を縛り 上げ、身動き出来ないようにしておいてから、あれこれ人生や防犯の説教をした 「説教強盗」のことですが、それを戦局も国民生活も悪化の一途をたどっている時だと云うのに、「必勝の信念」一点張り、説教好きの東条にたとえたのです。

 「嗚呼遂に、東条内閣は倒れたり。日本国民の中に宿れる聡明は、遂にわが国始まって以来の愚劣なる内閣を倒したり。官庁の空気は明るくなり、知れる者は皆、慶び合いたり」。こう書いたのは、近衛文麿元首相の秘書官をした細川護貞 さんです。国民の力を評価していますが、憲兵、特高警察の厳重な監視下、うっ かり口もきけない戦争中のことです。実際は重臣の世論、「一日も早く戦争終結 の道を考えなければダメだ」と、元首相の岡田啓介が近衛や平沼騎一郎、若槻礼次郎ら重臣を倒閣に結束させた結果でした。ところが小磯内閣の八か月半は、徳川夢声が日記に「東条内閣が総辞職したこと、私には感情的に会心のことでまこ とに目出たい。しかし、あとが小磯内閣とはなんだか気がぬけた」。こう書いているように、「木炭自動車内閣」と陰口されるほどの「スローモー内閣」。終戦にはまだ一年余りもかかってしまうのです。

 なぜ、東条内閣の後に終戦内閣が出来なかったのか。当時の日本の国力、戦力は、参謀本部戦争指導班が「既に破弾界に達している」、弾丸が破裂する寸前と 結論づけるほど、絶望的なものでした。十九年の生産見込みは、飛行機が計画五万二千機に対して約三万機、鋼材は四百五十万トンに対し二百五十万トンから三百万 トン、南方からの燃料輸送も三百万キロリットル以上の予定が半分です。しかも、こ の生産見込みが達成されたとしても、参謀本部の「機密戦争日誌」によると「航空揮発油、普通揮発油、共に十二月迄なり。消費規制その他の措置に依り、三月迄維持出来るかどうか」。こんなお寒い状況なのです。兵器の生産も逼迫し、いく ら兵隊を召集しても、武器を持てない軍隊の出現さえ予測されていました。

 八月二日の閣議で、各閣僚に「国務大臣としての意見を率直に述べてほしい」と要望したのは軍需大臣の藤原銀次郎です。藤原自身、船舶、石炭の状態が極端に悪いことを説明しましたが、外務大臣に留任した重光葵が「こうした状態を、な ぜ早く我々に伝えなかったのか」。こうなじるほど、東条時代は閣僚にさえ、よその省のことは知らせない、その秘密主義はひどいものだったのです。続いて農商大臣の島田俊雄が食糧事情の緊迫を訴え「長く細く行くか、太く短く行くか」。その何れかだとして、「食糧配給を一日三合にして、三か月間配給することを考 えている」と発言すると、閣議は沈痛な空気に包まれたと云います。

 日本が頼みにしていたドイツも、ヨーロッパ戦線、独ソ戦線で敗退が続いてい ました。七月二十日にはヒットラー総統の暗殺未遂事件が起こり、戦争指導班長 の種村佐孝大佐は「大本営機密日誌」に、「ドイツを見放す」と書いています。「ドイツ内部の士気崩壊を現わすものであり、この事件を契機に我々としては、ドイ ツ頼れずとの判断であった。一年前には、 ムッソリーニ政権崩壊後イタリヤは降伏し、いままたドイツは虫の息になりつつある。三国枢軸はここにくずれんと し、日本は独力で戦争遂行を覚悟せねばならぬ段階になった」。その種村が参謀本部参謀の三笠宮少佐に会議決定の要旨を説明に行ったところ、聞き終わった三笠宮は、種村が持って行った書類の裏に鉛筆で「帝国は速やかに大東亜戦争を終熄せしむ」。こう書いて「この方針では如何ですか」と問いかけたと云うのです。

 ここまでわかっていながら、小磯内閣はなぜ終戦内閣ではなかったのか。終戦 への努力の第一歩が、まず戦争を始めた政権を倒すことにある。この岡田たち重臣の考えは、確かに東条内閣総辞職で達成されました。しかしそれから先の道程は、それまで以上に険しいものだったのです。外務省は敗戦後の二十六年四月、 「日本外交の過誤」と題する五十ページほどの文書を纏めています。当時の吉田茂首相が、サンフランシスコ講和条約締結を目前に控え、政務局政務課長を呼んで「日本外交は、満州事変、支那事変、第二次世界大戦と云うように幾多の失敗を重ねてきたが、今こそこのような失敗の拠ってきたところを調べ、後世の参考に供すべきものと思う。君たち若い課長の間で研究を行い、その結果を報告して貰いたい」。こう云う指示で作成された文書ですが、「実際問題として、二十年三月頃 までは終戦工作を行い得るような国内状況ではなかった」としています。

 
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