第44回 硫黄島玉砕と本土空襲激化


 サイパン島を発進したB29が、初めて東京上空に姿を現わしたのは朝から快晴 の昭和十九年十一月一日でした。たった一機、房総半島の勝浦から侵入し、午後一時過ぎ松戸、調布、成増の基地から迎撃機が飛び立ちましたが、高度は一万メートル。 そこまで上昇出来る戦闘機は少なく、高射砲弾も七千メートルが限度で届きません。B 29は爆弾を落とすこともなく、都下武蔵野町の中島飛行機工場を写真撮影すると 午後三時前、四本の飛行機雲を引いたまま悠々と洋上に飛び去つたのです。

 私がB29を見てまず感じたのは、実に美しい飛行機だと云うことでした。全長三十メートル、幅四十三メートル。ちょうど細長いバットに翼がついたような感じで、低空飛行の場合に施す迷彩の必要もなく、アルミの地肌そのままに銀色の機体をキラキ ラ輝かせていました。しかしその性能となると、まさに「超空の要塞」の名前にふさわしいものだったのです。最高時速は戦闘機並みの五百七十七キロ、爆弾搭載量が最大で九トン、航続距離は四トンの爆弾を積んで五千五百キロ。増槽タンクをつければサイパンー東京間二千キロ余りを楽々往復出来る十五時間の飛行も可能でした。 機内三か所に気密室があつて、高度一万メートルでもニ千メートルと同じ状態を保ち、十一人の搭乗員は酸素マスクなしで行動出来ました。日本海軍の一式陸上攻撃機と比べても、爆弾搭載量で九倍、飛行速度で一・五倍、それでいて航続距離は二・四倍と云う凄さです。

 このB29はもともとは、強力なドイツ空軍に対抗するために開発されたものでした。ところが十七年九月に試作一号機が完成すると、アメリカは対日戦勝利の近道として、ヨーロッパ戦線は既存のB24、B17爆撃機に任せて、量産態勢に入ったB29全機を太平洋戦線に投入してきたのです。十九年六月のサイパン攻略戦は、云うならばB29のために行なわれた作戦でした。アメリカ統合幕僚会議は、日本を屈伏させるには本土進攻作戦もやむなしとしていましたが、その前に強力 な爆撃と空と海からの封鎖によつて、日本の戦力を出来るだけ減らしておく必要がありました。それには、これほど長距離を飛べ、安全に大量の爆弾を投下出来る爆撃機はありません。米軍は七月七日にサイパン、八月二日にテニアンを占領すると、八月十日には早くもB29の基地として使用を開始し、グアムを含めたマ リアナ基地に常時一千機配備の態勢を整えていったのです。

 日本の方は、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦で連合艦隊が壊滅状態となり、陸軍もレイテ決戦に敗れて本土の防備強化を急いでいました。しかし、中心となる航空兵力となると、陸海軍の実働機が台湾から本土まで搔き集めても六百二十六機。一応防空戦闘機と銘打ってある八百七十機も、実働は三分の一と云う状況です。本土防空は陸軍の担当でしたが、帝都防空の専任部隊として第十飛行師団を編成したのが十九年三月でした。胴体や主翼の日の丸の周りに白い帯を描いて、 クッキリ日の丸を浮かび上がらせた戦闘機をご記憶の方もいらっしやると思いますが、これは「本土防空」の任務を示す目印でした。しかしその迎撃能力となる と、これまたお寒いものだったのです。一万メートルのB29を墜とすには、十五分から 二十分くらいの短時間で上昇、接近出来る性能が要求されました。ところがほと んどが四、五十分もかかってしまい、しかもその上昇高度を維持するのが難しく、 失速して一気に数千メートルも落下してしまいます。そのうえ高い高度での戦闘能力も 六千メートル限度の設計で、B29の迎撃にはまあ平幕が横綱に立ち向かうようなものだったのです。レイテ決戦で神風特別攻撃隊が出撃してからは、陸海軍の航空部隊は「総特攻態勢」に入っていましたが、第十飛行師団長の吉田喜八郎中将も十一月七日、各基地にB29に対する特攻隊編成命令を出しています。体当り以外に有効な手立てはないと云うわけです。

 

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