第48回 ポツダム会談へ向けて


 これからお話する「ポツダム会談へ向けて」、その話の舞台となるポツダムはドイツ東部、ベルリンの南西にある工業都市で、サンスーシ宮殿などドイツ帝国時 代の多くの離宮、別荘が、世界遺産に指定されていいることでも知られていますが、ここに米英ソ三国の首脳、トルーマン、チャーチル、スターリンが集まり、ポ ツダム会談が開かれたのは、六十六年前の昭和二十年七月十七日でした。二十六日夜には日本に対する最後通告として、「ポツダム宣言」が発表され、広島、長崎 への原爆投下、ソ連の対日参戦を経て八月十五日の終戦となりましたから、「日本への降伏勧告問題を討議したのがポツダム会談だ」。そう思われるかも知れませんが、実際は会談の公式議題は全て「ヨーロッパ問題」。三巨頭の話し合いも、 ほとんどがヨーロッパの戦後処理に終始したのです。そして三国の首脳が、それぞれ全く異なった思惑で集まって、始まったのがポツダム会談でした。

 連合国の首脳は、戦争中何度も会談しては、当面する課題、さらには将来の方針について話し合っています。日本に関係のあるものだけでも、まず昭和十八年一月十四日、米英首脳がカサブランカ会議で「日独伊枢軸国に対する無条件降伏要求の原則」を決定しました。十一月二十二日のカイロ会談には、蒋介石が加わ り、戦後の日本領土を本州、北海道、九州、四国と連合国の指定する島々に規定 し、つまり満州は勿論、朝鮮や台湾も取り上げ、 「日本が無条件降伏するまで戦 う」ことを宣言しています。続いて二十八日から開かれたテヘラン会談には、蒋介石に代わってスターリンが参加し、ドイツ降伏後の対日参戦を秘かに表明しま した。そして、ソ連の極東における幾つかの要求を、当時のルーズベルト大統領が認める代わりに、ソ連の方はドイツ降伏後三か月以内に対日参戦をする。このことを秘密協定で約束したのが、昭和二十年二月四日からのヤルタ会談でした。

 これに対して枢軸国側の首脳会談なんて、一回も開かれていないのですから、日独伊三国同盟が、いかに掛け声だけ、形式的なものであつたかが分かります。 戦争が始まってからは、日本とドイツ、イタリアの間は連合軍によって完全に遮断され、わずかに潜水艦で陸海軍関係者を往来させるのがやっと。戦局はもう、 首脳会談などとても不可能にしていました。では、連合国側がポツダム会談を必要としたのは、なぜだったのでしょうか。それは公式議題でも分かるように、五月七日のドイツ降伏の前後から、ソ連がポーランドをはじめ東ヨーロッパを次々と支配下に収め、早くも米英との対立が表面化するようになったからなのです。

 首脳会談には、テヘラン会談に「ユーリカ」、 ヤルタ会談に「アーゴノート」な ど、難しいギリシア語を暗号名に使っていますが、ポツダム会談だけは英語でそのものずばり、「ターミナル」です。「終点、終わり」ですから、第二次世界大戦の フイナーレを飾る会談にふさわしい暗号名のように思えますが、ポツダム会談の提唱者であり、また「ターミナル」の名付親でもあるイギリス首相チャーチルにとっては、単なる「終わり」ではなく、「新しい対立の始まり」。この思いが強かったようです。チャーチルは、ドイツ降伏四日後の五月十一日には、早くもトルーマ ンに「スターリンを会談に招くべきだ」と、電報を打っているのです。

 その回顧録「第二次世界大戦」に、こう書いています。「しかしながら、事態にはもう一つの局面があった。日本はまだ征服されていなかった。原子爆弾がま だ生まれていなかった。世界は混沌としていた。大同盟を結んでいた共通の敵という主要な絆が、一夜のうちに消え去っていった。私の目には、ソ連の脅威がすでにナチスという敵にとって代っているように見えた。しかしそれに対する連携は存在していなかった。民主主義国の戦勝軍が間もなく解散し、本当の最もきび しい試練がわれわれの前に横たわっているという不安を、私はぬぐい去ることができなかった」。チャーチルは、「第一に考えたことは、三大国の会議を行なうことだった」と言っています。「私はただ、救援のない国国に押し進められている、 ソビエト・ロシア帝国主義の広範な現われを感ずるのみだった。最初の目的がス ターリンとの会談でなければならないのは明らかだった」。こう言うのです。

 

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