第51回 ソ連参戦 満州へ攻め込む


 昭和ニ十年八同十五日の正午、あの「終戦」の玉音放送を聞いた時、国民はみんな「ああ、負けたんだ。これで戦争は終わったんだ」。そう思ったのではないでしょうか。朝からジリジリするほど暑い日で、ラジオは繰り返し「正午の玉音放送」を予告していました。六日の広島への原爆、九日にはソ連が日ソ中立条約を破って満州へ一斉に攻め込んで来ましたし、長崎にも原爆が投下されました。国民は、戦争がもうどうにもならなくなっていることは、肌で感じていましたが、それでも多くの人は「本土決戦、一億玉砕」を叫ぶ軍部の掛け声のままに、「まだまだ戦うんだ」と。中学三年生だった私なんかも、この日本の歴史上初めての天皇の放送は、「国民に最後の奮起を促すためだ」と思っていました。

 今でも六十六年前の全てが真っ白になったような思いを、昨日のことのようによく覚えております。私は勤労動員先の軍需工場で放送を聞いたのですが、正午の時報の後、和田信賢アナウンサーが「ただいまより重大なる放送があります。全国聴取者の皆様、ご起立願います」。続いて「君が代」が流れ、内閣情報局総裁下村宏が「天皇陛下におかせられましては、全国民に対し、かしこくもおんみずから大詔を宣らせたもうことになりました。これより、謹みて玉音をお送りしま す」。そして、戦争終結を告げる昭和天皇の声が、静かに抑揚を伴って流れ出したのです。雑音まじりで聞き取りにくい放送でしたが、「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」。これだけははっきり聞いて、「ポツダム宣言」を受諾したということは降伏したことなんだ。私は そう思いましたし、誰もが戦争終結の決定的な一瞬だと受け止めたはずでした。

 ところが、実際は、この日で戦争は終わってはいなかったのです。日本こしては、米英、中国、ソ連に対して同時に降伏した積もりでしたが、ソ連だけはその後も攻撃を続けたのです。千島列島最北端の占守島に、ソ連軍が砲撃と共に上陸 して来たのは十八日の早朝でした。そして現在、ロシアとの間に領有権問題が続いている北方四島、これらの島々がソ連軍の手に落ちたのは、終戦から十三日も経った二十八日からのことなのです。ソ連軍はこの日、択捉島に上陸すると、九月一日に国後島、色丹島に進出し、歯舞諸島の占領を終えたのは実に五日のことでした。九月二日には東京湾の戦艦ミズーリ号艦上で降伏文書の調印式が行なわ れ、ソ連軍代表も署名しているのですから、太平洋戦争は公式にはこれで終止符が打たれたはずでした。しかし、 ソ連はその後も軍事行動を続けていたのです。

 八月九日、終戦わずか六日前というソ連の駆け込み参戦で、戦闘による死者は満州六万、樺太・千島で五千、計六万五千人と言われています。ところが停戦後 の死者は、厚生省の資料によると満州で十八万五千、北朝鮮二万八千、樺太・千島一万、ソ連本土では五万五千と、二十七万八千人にものぼっているのです。満州、北朝鮮の死者はほとんどが民間人で、中でも国境地帯に入植していた開拓団は、二十七万の開拓民のうち八万人近い犠牲者を出しています。ソ連軍の猛攻の中を逃げ惑い、飢えと寒さの逃避行に倒れていったのですが、ソ連本土の死者五万五千人こそは、まさに非道としか言い様のない、シベリアの長期抑留によるものでした。

 スターリンは八月二十三日、 「極東、シベリアでの労働に、肉体的に耐えられる日本軍捕虜五十万人を選抜せよ」。こういう極秘指令を出し、五十七万五千人が、シベリアなどソ連全土に点在した千二百か所の収容所に送られ、極寒の中での苛酷な労働を強いられたのです。最長で十一年にも及んだ最後の抑留者一千二十五人が舞鶴に帰って来たのは、昭和三十一年十二月二十六日、経済企画庁が 経済白書で「もはや戦後ではない」と宣言し、日本は高度経済成長に向けて走り出 している時でした。無事にソ連から引き揚げることが出来たのは、四十七万二千九百人。この他、満州や北朝鮮に帰された人が四万三千人いたと言いますから、 数字的には大体合うのですが、抑留団体やロシア研究者の間には、抑留中の死者は六万二千人から九万二千人に達する、との見方もあります。

 ソ連は平成二年四月、死亡者名簿や遺骨の引き渡し協定に調印しましたし、五年十月に来日した当時のロシア大統領エリツィンも、シベリア抑留を「全体主義の犯罪だ」と謝罪しました。しかし、シベリアの凍土に眠っている遺骨収集は遅々として進んでいないのです。五年前、平成十八年八月の読売新聞投書欄に「シ ベリアで死亡祖父の遺骨戻る」という、三十七歳の札幌市の主婦の投書が載っていました。祖父と同じ部隊にいて生還した人たちが、「異国で無念の死を遂げ た沖間を、ふるさとへ帰してやるのは自分たちの使命だ」と遺骨収集に当たり、 DNA鑑定で祖父の遺骨と確認されたんだそうです。名前だけ刻まれて、遺骨のないお墓に六十年以上も手を合わせ続けてきた祖母とお母さんは、「泣いたり笑ったりしながら、祖父の遺骨に話し掛けています」と書いてありました。「せめて遺骨だけでも…」。そう思っている遺族は、まだまだ大勢いますし、その人たちにとっては、戦争はまだ終わっていないのです。

 

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