第54回(最終回) 総括 明治から敗戦まで


 きょうは、日露戦争に勝利した日本が、なぜ四十年の間に敗戦の運命を迎えな ければならなかったのか。日露戦争と太平洋戦争では、一体何が違ったのか。こ の二つの戦争を対比しながら、検証してみたいと思います。

 三年八か月にわたった太平洋戦争は、昭和二十年八月十五日、軍部が叫んでい た「本土決戦、一億玉砕」にならずに、聖断という天皇の決断によって終わらせることが出来ました。鈴木貫太郞首相は四月七日に組閣以来、心中深く終戦を決意 をしていましたが、それを表に出せば軍部がすぐ倒閣に動いていたでしよう。和平の成立には、残念ながら外交手段ではなく、広島、長崎への原爆、ソ連参戦というもっぱら物理的破壊によって、まず軍部強硬派の抗戦意欲が叩きつぶされる時まで、待たねばならなかったのです。それでもなお国体護持、いま国体と言う と国民体育大会ですが、当時は天皇制そのもの。天皇制を守れるかどうかで、最高首脳部内部の対立が続き、手詰まりに陥った最終段階で、鈴木首相がその均衡を崩した衝撃が聖断だったわけです。でも、どうでしよう。聖断に頼らなければ終戦出来なかったということは、日本の戦争指導機構の仕組み、さらには明治憲法に欠陥があったことを物語っているのではないでしようか。

 第二次大戦ではアメリカのルーズベル卜、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンのように、政治、経済、軍事、この三つを統一指導できる国家指導者のい る国では、そのやり方に民主的か独裁的かの違いはあったにしても、戦争指導ははっきりしていました。国家の安全危機を前にして、右顧左眄、妥協することな く、最善と信ずる所にあらゆる努力を集中し、強力な指導力で国家を引っ張っていっています。ところが日本には、戦争指導を決定する最高指導者がいなかったのです。明治憲法は第一条で「大日本帝国、万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第三条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スべカラズ」と、徹底した主権在君主主義で貫かれてい ます。天皇は統治権の総攬者であり、官吏を任免し、陸海軍を統帥し、法律に代 わる緊急勅令も出せましたし、一般国民には絶対的権威として君臨し、公の事は何でも天皇の名によって行われました。一見、強大な権力のように見えますが、 実際には天皇の統治権は国務各大臣の輔弼、参謀総長、軍令部総長の輔翼、つま り助言、補佐によって行われ、その権威は極めて名目的なものに過ぎなかったのです。閣議の議決には、天皇には慣例として拒否権はありません。もし天皇が裁可を拒まれると、責任内閣制が成り立たなくなってしまうからです。ですから現実としては、天皇は国政の権限外に置かれていたことになります。

 戦争指導は政治の輔弼の最高責任者である総理大臣、統帥の最高輔翼者である参謀総長、軍令部総長、この「三者鼎立」の形で行われたわけですが、首相は統帥権の独立を盾にする軍部には、作戦事項に口出しすることはおろか、軍がどんな 作戦をやろうとしているのか、知らされることもありません。しかも、内閣を主宰する首相の立場も、極めて弱いものだったのです。各国務大臣は天皇に直属していますから、首相は本人の同意がない限り、その主管事項に介入することも、 意見が違うからといって免職にすることも出来ません。その上、閣議の議決は全員一致でなければ成立しないことは、内閣官制で決められていて、これが国家の意思決定を遅らせることにもなりました。言ってみれば、日本の戦争指導という のは寄り台い所帯で、それもお互いの顔を見ながらやったのであって、これが開戦、さらには敗戦の悲劇を生んだ根本原因だったと思います。

 終戦当時侍従長をしていた藤田尚徳が、戦後「終戦前夜」というテレビ番組で回想しているのですが、昭和天皇は昭和二十二年二月頃、こう言われたというのです。「民間の人はよく言うそうだ。戦をやめることが出来た天皇が、なぜ戦を始 める前に、戦をしてはならんと言われなかったのかと。なるほど、ちょっと聞くともっともらしい言い方だなあ、とおっしゃる。しかし、それはそうはいかんのだと。日本には憲法があって、天皇はその憲法の枠の中でなければ一切の言行を してはならん。だから国務大臣が裁可を請うといって、一つの案を自分の前に持ってきた場合には、これは、およその衝に衆知を尽くして考え抜いたことなんだから、裁可する以外の道は絶対にない。もしその時に私がある時はいいと言い、 ある時はいけないと言ったら後どうなるか。立憲国の君主としては、そういうことは憲法上できんのだ、私は専制国の君主じゃないからね、とおっしゃった」。 そして藤田に「もう戦争は、やめなあならんと思ったからやめさせたんだが、こ れは私と肝胆相照らした鈴木だったから出来たんだ。残念ながら、戦争を始める前には近衛にはこの着想がなかったね」と言われたそうです。昭和十六年十月、 日米交渉に行き詰まり、内閣を投げ出した近衛文麿のことです。

 近衛自身、聖断を聞いて「そうか、その手があったか」と言ったと、言われますが、鈴木も回想記「終戦の表情」にこう書いています。「真に国政を左右するよう な非常事態に立ち至って、論議が決定せぬ時には、国の元首たる陛下の御聖断を 仰ぐべきが、真の忠誠の臣のなすべき道である、と余はかねがね考えていた。も ちろん、このことに関しては輔弼の責任者たる総理大臣は一命を投げだしてかか らねばならないであろう。それは、御聖断により、天皇には責任が生ずるからである。だが、それをしないで、政府が開戦を決定して、ご裁可を仰ぐようなことは問題であると思う。これは陛下のご意志をある政策のために強要するということになるからである。従来の慣習として、陛下には自発的に行政についてご発言なされるということはなくたとえ心中ご不満であらせられても、ご裁可になったのである。たとえば開戦前の九月六日の御前会議に際して、なぜ総理は、これは近衛のことですが、陛下のご裁断を仰ぐことをせず、総辞職し、みすみす暴挙と判っている戦争に突入せしめてしまったのか。もしあの時、総理が死を決してご裁断を仰いだならば、太平洋戦争は起こっていなかったかも知れない」

 
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(管理人から:配布資料は、「メモ」の21ページと1枚紙の「年表」の間に、白紙[右上に手書きで54の文字]がありますが、これはメモの裏側が誤って挿入されているだけで、「メモ」は21ページが最終です)