第6回 日露戦争とその時代

 百年ほど前の日露戦争の時代とは、いったいどんな時代だったのでしょうか。平成も二十年になりますと、明治がますます遠くなった感じが致しますが、一口で言えば、武士道精神の色濃く残った時代だったと思うのです。旅順を攻略した第三軍司令官乃木希典大将は、ステッセル将軍と水師営で会見したとき、降伏の印であるサーベルを取り上げずに、その着用を許しました。従軍記者たちのたっての願いで承知したのが、会見が終わった後で友人として並んだ記念写真、それも一枚だけという条件でした。このことは、唱歌「水師営の会見」で「昨日の敵は今日の友」と愛唱され、日本人の誇りとなりましたが、実はこれは明治天皇のご指示でもあったのです。要塞旅順は、日露戦争で日本が一番苦戦をした戦場です。延べ十三万の将兵が攻略するのに四か月半もかかり、一万九千三百四人の戦死者を出しました。ですから、日本中が待ちに待った旅順陥落の第一報は、元日の深夜にもかかわらず、明治天皇に真っ先に報告されたのです。天皇の伝記「明治天皇紀」は「色、天皇の顔色のことですが、甚だ快然なり」と、その喜びを伝えています。そして「祖国のために尽くしたステッセルに、武士の名誉を与えよ」との天皇の言葉は、直ちに参謀総長山県有朋から乃木大将に打電されたのです。

 

 連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将は、日本海海戦で重傷を負って捕虜になったバルチック艦隊司令長官ロジェストウェンスキー中将を、佐世保の海軍病院に見舞っています。東郷は「日本では勝敗は兵家の常、戦う者の常だと申します。祖国のために立派に戦って義務を尽くせば、軍人の名誉は傷つきません。私は、閣下とその将兵が実に勇敢に戦われたのをこの目で見て、感激しました」。こう言って「閣下のために病院船を一隻準備させておきます。健康を回復されて帰国を希望される時は、いつでもご用命下さい」と申し出たのです。海軍大臣の山本権兵衛も、東京から見舞いの花束を贈っています。花束には「閣下が祖国の為め勇戦奮闘以て武将たる本分を尽くされたるは、予の深く敬意を表する所にして」と山本の言葉が添えてありました。明治の軍人は、戦争の中にあっても相手に対する敬意を忘れない、高潔な心を持っていたように思います。

 

 戦争が始まってロシアのローゼン公使が帰国する時、朝日新聞は送別の社説を掲載しています。ローゼンは明治三十年から三年間日本公使を務め、三十六年に再び公使として来日しましたが、公使館員時代も含めると通算十四年も日本勤務をしたロシア切っての日本通です。その社説は「国として相戦うの事態になうゼも、人として相愛するの心に変わりはない。国としての交際は断絶しても、人としての友情はある」というもので、帰国の旅の安全を祈る言葉で結ばれていました。明治とは、名誉、信義、礼節、さらには情けを大切にする時代でした。

 

 お読みになった方も多いと思いますが、「国家の品格」という本を書いてベストセラーになった数学者の藤原正彦さん、藤原さんがこの本を書いた動機が「武士道精神の崩壊にあった」というのです。読売新聞の「時代の証言者」という連載シリーズで、藤原さんはこう話しています。「バブル崩壊の後、自由とか公平ばかりを追求する市場原理を取り入れた結果、日本は弱い者への思いやりとか、卑怯を憎む心意気などをなくした。今こそ武士道精神を、と声高に述べた。言論界から総スカンを食ってもいい、そうなったら筆を折って、また数学に戻ればいいだけだと思い定めて書いた」。藤原さんは「日露戦争くらいまでの日本は本当に立派な国でした。ロシア兵捕虜を各地の収容所で手厚く治療したり、近辺の温泉や小学校の運動会に招くなど、武士道精神で過したのです。明治時代の将軍はみな寺子屋や藩校で読み書き算盤、論語の素読といった教育を受けた世代です。即興で漢詩を作る素養があり、高い道徳性を身につけた人たちでした」とも言っています。

 

 私がもう一つ付け加えるとするなら、明治のリーダーはまた、自ら武士として明治維新の風雲を潜り抜けて来ました。人間どう振る舞い、どう行動することが美しいか、武士としての美意識を心に強く残した人たちだったと思うのです。乃木は日本海海戦の戦勝祝賀会で、「わが連合艦隊、勇敢な軍人、そして東郷提督のために祝杯をあげる」と乾杯の音頭をとり、こう挨拶しています。「それもこれも天皇陛下の御稜威によって海軍は大勝を得た。が、忘れてならぬのは敵が大不幸をみたことである。わが戦勝を祝すると同時に、また、我々は敵軍の苦境にあるのを忘れないようにしたい。彼らは強いて不義の戦いをさせられて死についた立派な敵であることを認めてやろうではないか」。「こちらの喜びの陰に、先方の不幸がある。それを忘れようにしたい」と言うのですが、それが乃木だけの思いでなかったことは、日本政府が旅順で日本将兵の表忠碑より二年半も早く明治四十年六月、ロシア将兵一万四千六百三十一名の忠魂碑を建てていることでもわかります。正面にはロシア文字で「旅順防勢戦ノ露国殉難烈士ノ遺骸茲に安眠ス 一九〇七年日本政府此碑ヲ建ツ」、背面には時の関東都督大島義昌大将の追悼の辞「英霊ヲ百世ニ弔ヒ、義烈ヲ千載ニ掲グルガ為メ茲ニ此ノ碑ヲ建ツ」と刻まれていました。

 

 もう一つ、日露戦争の時代の大きな特徴は、言論統制がなかったことです。自分の主張を大きな声ではっきり言える、この前にもこの後にもない、大変大らかな時代だったのです。太平洋戦争の頃を少しでも知っていらっしゃる方なら、新間や議会が「軍の作戦がおかしいから、こんなことになったんだ」と、軍のミスを非難、批判したりしたなんてことは、とても考えられないことでしょう。

 

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