第9回 明治の元老政治

 きょうは「明治の元老政治」というテーマで、明治国家がどのようにして作られ、またどう発展していったのか。元老中の元老である伊藤博文と山県有朋を中心に、話してみたいと思います。

 

 昭和十五年の十一月、最後の元老と云われた西園寺公望が亡くなりました。九十一歳の高齢でした。国葬が行なわれましたし、ちょうど私の祖父が七十五歳で死んだばかりだったので、当時小学生だった私もよく覚えているのですが、正直云って祖父に比べ「大変なお年寄が死んだ」と云うくらいの思いでした。ところが実は、この元老こそが明治、大正の日本を動かしていたのです。大正四年九月、元老の井上馨が静岡県興津の別荘で危篤になった時です。病気に障ってはいけないと云うので、東海道線を走る全列車が興津へさしかかると、徐行運転をして息を潜めるようにして通ったと云います。こんな話が残っているほど、現在では想像もつかないくらい大変な存在が元老だったのです。

 

 元老は、憲法や法律に基づいて置かれたものではありません。それでいて、そんなに大きな権勢を誇ったのは、いずれも明治維新に手柄を立てた明治国家の建設者であり、国の初めに勲があったということで、天皇の詔勅で「元勲」とされたからです。戦前の天皇絶対の時代に、これほどのお墨付きはありません。元勲とされた元老は全部で九人います。ただ一人、西園寺公望がお公家さんの出身でしたが、後は伊藤博文、山県有朋、井上馨、桂太郎と長州が四人、黒田清隆、西郷従道、松方正義、大山巌と薩摩が四人です。「明治維新は薩長によって成った」と云われますが、この言葉通り元老政治は裏を返せば薩長の藩閥政治でもありました。ところが日清、日露戦争という明治国家最大の危機をどうにか切り抜けることが出来たのは,この元老の存在に負うところが大きかったのです。

 

 実は明治憲法そのものは政治機構、ことに戦争になった時の戦争指導に大きな弱点を抱えていました。第一に、総理大臣の権限が極めて弱かったことです。憲法第一条に「万世一系の天皇之を統治す」とありますから、国家の主権は天皇が握っているようですが、その天皇は第三条で「神聖にして侵すべからず」。と云うことは、天皇は政治責任を負っていないのです。では、その責任は誰がとるのかと云うと、第五十五条に「国務各大臣は天皇を輔弼しその責めに任ず」とあります。輔弼というのは天皇に助言し補佐するという意味ですが、ある意味では明治憲法の性格を一番よく表した言葉だと思います。つまり天皇の統治権は、国務大臣が天皇を助け、助言することによって行なわれ、大臣が責任をとったのです。

 

 戦前は総理大臣のことを内閣首班と云いました。これは内閣での席次第一位と云うことであって、内閣の首長、長ということではありません。例えば外交問題は外務大臣といった具合に、大臣の一人一人が天皇に直接責任を負っていて、総理大臣はそのまとめ役に過ぎないのです。現在の憲法のように、大臣に対する指揮監督権もなければ、言うことをきかない大臣を首にすることも出来ません。内閣の中で一人でも意見が違えば、「閣内不一致」で総辞職するしかないのですから、これでも総理大臣かというほど、その権限は極めて弱いものだったのです。

 

 戦争中、独裁者のように振る舞っていた東条英機が総辞職に追い込まれたのもそうなんです。昭和十九年七月にサイパン島が陥落した時、「もう東条内閣ではダメだ」と、重臣たちの間に倒閣の動きが出てきました。東条は重臣二人を入閣させ、重臣を取り込んだ内閣改造で何とか乗り切ろうとしたのですが、それには国務大臣のポストを空けなければなりません。そこで国務大臣で軍需次官の岸信介、戦後首相になる岸に国務大臣の辞任を求めたのですが、岸に拒否されて結局は内閣総辞職しかなくなってしまいました。当時の東条は、首相、陸相、軍需相のほか参謀総長も兼務し、いわば権力を一手に握っていましたが、その東条でさえ一国務大臣のポストを白由に出来なかったのです。

 

 その上「統帥権」という、大変厄介なものがありました。統帥というのは軍隊を動かすこと、軍隊の最高指揮命令権のことですが、第十一条に「天皇は陸海軍を統帥す」とあり、天皇の統帥権は陸軍の参謀総長、海軍の軍令部総長の輔翼で行なわれました。輔翼も補弼と意味は同じで、やはり補佐することです。ところが「統帥権の独立」といって、これは政府、議会から独立した天皇の大権だとして、これには総理大臣といえども口出し出来ないのです。昭和になって軍部が大きな発言権を持つようになると、政治が軍事を支配せず、軍事優先の国家体制になった原因でした。

 

 そして何とも奇妙なことに、こうした天皇の行政権と統帥権とを調整し、まとめて補佐する機構が、日本にはなかったことです。誰がその調整機能を果たすのかといえば、天皇ということになるのですが、何でも思いのままになる専制君主ならともかく、臣下の助言を建前としている立憲君主には不可能なことです。東条が戦局が悪化した十九年二月、強引に参謀総長を兼務したのも、その真意は統帥と政務の一体化で自分の立場を強化しようとしたものだったのです。

 

 こうした憲法の欠陥がもろに出たのが、昭和に入ってからの日本でした。出先の軍隊が勝手に火をつけて騒ぎを起こし、統帥権を盾にしてどんどん軍隊を進めて行きます。昭和六年の満州事変がそうでした。関東軍が柳条湖で満鉄線路を爆破し、これを口実に満州全土を支配下に置こうとしたのです。昭和十二年の支那事変にしても、元はといえば盧溝橋の些細な発砲事件でした。ところが中央は中央で、将来の展望もないままこれを黙認し、ずるずる引きずられる結果になってしまいました。国策がいつも後手後手になったのです。それでは同じ憲法の下でなぜ日清、日露戦争はうまくいったのでしょうか。それは天皇に代わって元老たちが実質的に調整機能を果たし、憲法の欠陥を補ったからなのです。

 

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