第35回 日米開戦 ハワイ真珠湾攻撃

 六十九年前の日米開戦の日、私は小学校の五年生でしたが、あの昭和十六年十二月八日の朝を今でも鮮明に覚えております。吐く息が白く見えるくらいに寒い、よく晴れた月曜日の朝でした。大塚駅裏手にある天祖神社の清掃当番に当たっていて、午前七時ちょっと前、それを済ませて帰って来たところへ、舘野守男アナウンサーの「臨時ニュースを申し上げます、臨時ニュースを申し上げます」。そして....(続きはこちら

第36回 東京初空襲とミッドウェー海戦

 昭和十六年十二月八日、ハワイ真珠湾攻撃で幕を開けた太平洋戦争は予想以上の成功のうちに進められました。海軍はアメリカ太平洋艦隊、イギリス東洋艦隊を撃破し、新聞には連日のように「撃沈」、「轟沈」といった威勢のいい活字が躍りました。陸軍もフィリピンのバターン半島攻略に手間取ったくらいで、香港、マニラ、シンガポールの要衝を相次いで占領しましたし....(続きはこちら

第37回 ガダルカナル

 これからお話するガダルカナルは、太平洋戦争を少しでも経験された方なら、特別な感慨を覚える、忘れられない島の名前なのではないでしょうか。軍事記者として数多くの本を残している伊藤正徳は「ガダルカナルは、単なる島の名前ではない。それは帝国陸軍の墓地の名である」と書いています....(続きはこちら

第38回 山本五十六戦死とアッツ島玉砕

 私が中学校に入ったのは昭和十八年四月ですが、何といってもショックだったのは、入学早々の連合艦隊司令長官山本五十六の戦死でした。大本営が五月二十一日午後三時、「連合艦隊司令長官海軍大将山本五十六は本年四月前線に於て全般作戦指導中敵と交戦飛行機上にて壮烈なる戦死を遂げたり。後任には海軍大将古賀峯一親補せられ既に連合艦隊の指揮を執りつつあり」。こう発表し....(続きはこちら

第39回 戦時下の言論 中野正剛代議士自殺と横浜事件

 太平洋戦争の代表的な言論弾圧、思想弾圧事件と云えば、これからお話する中野正剛代議士の自殺と横浜事件です。中野場合は新聞がすぐ「中野正剛氏自殺、昨夜日本刀で割腹」。二段見出しで速報しましたし、現職代議士の突然で、しかも自刃という死に方の異常さもあって、政界、言論界に大きな衝撃を与えましたが、これは憲兵の圧力によるものでした。横浜事件の方は....(続きはこちら

第40回 学徒出陣と勤労動員

 「学徒出陣」と聞いて、戦争を経験された方ならまず頭に浮かぶのは、明治神宮外苑陸上競技場で行われた文部省主催の「学徒出陣壮行会」、あの雨の中の行進ではないでしょうか。昭和十八年十月二十一日、朝から冷たい雨の降りしきる寒い日でした....(続きはこちら

第41回 インパール作戦

 これからお話するインパールは、竹山道雄さんの小説「ピルマの竪琴」の舞台にもなっ た戦場です。お読みになった方も多いと思いますし、映画にもなりましたが、インパールはガダルカナルと共に太平洋戦争で最も悲惨な戦いが行われた所です。「酸鼻を極める」という言葉がありますが、インパールがまさにそうでした.....(続きはこちら

第42回 サイパン陥落と東条英機内閣総辞職

中部太平洋のマリアナ諸島サイパン島で、日本軍守備隊が玉砕したのは昭和十九年七月ですが、私が強烈な衝撃を受けたのは、何と言っても戦後公開されたア メリ力の記録映画を見た時でした。高さ百五十メートルのマッピ岬の断崖から、日本人女性が次々と宙に身を躍らせ、あるいはわが子をしっかり抱き抱えた母親が投身自殺をする。あの壮絶な場面を見た時です.....(続きはこちら

第43回 レイテ決戦と小磯国昭内閣

戦争中、二年九か月にわたって君臨してきた東条英機内閣が総辞職したのは、昭和十九年七月十八日でした。絶対国防圏の要衝、この線だけは絶対に守るとしてきたサイパン島の陥落が引き金となったのですが、二十二日には朝鮮総督の予備役陸軍大将小磯国昭内閣が成立しました。人権派弁護士として活躍した正木ひろしは日記に、「新内閣の出現は、神が日本を見捨てなかった証拠である。夜が白み始めた.....(続きはこちら

第44回 硫黄島玉砕と本土空襲激化

サイパン島を発進したB29が、初めて東京上空に姿を現わしたのは朝から快晴 の昭和十九年十一月一日でした。たった一機、房総半島の勝浦から侵入し、午後一時過ぎ松戸、調布、成増の基地から迎撃機が飛び立ちましたが、高度は一万メートル。 そこまで上昇出来る戦闘機は少なく、高射砲弾も七千メートルが限度で届きません。B 29は.....(続きはこちら