第26回 支那事変と近衛文麿内閣

 きょうは、昭和十二年七月七日の七夕の夜、北京郊外盧溝橋で発生した発砲事件、結局はこの発砲が支那事変、さらには太平洋戦争へとつながっていくわけですが、その盧溝橋事件を中心に話してみたいと思います。盧溝橋と云うのは、北京の西側を永定河が流れていますが、そこにかかる全長三百五十㍍の大理石の橋です.....(続きはこちら

第27回 泥沼化する支那事変

 きょうは、昭和十二年七月七日の七夕の夜、北京郊外盧溝橋で発生した発砲事件、この盧溝橋事件が、なぜ八年間にわたる日中全面戦争にまで発展してしまったのか。 「泥沼化する支那事変」というテーマで話してみたいと思います。元はと云えは、出先の軍隊の些細なトラブルでした。日本陸軍一個中隊が夜間演習をしている時、突然十八発ほど銃撃された.....(続きはこちら

第28回 ノモンハン事件

 これからお話するノモンハン事件は、ちょうど七十年前、昭和十四年五月から 八月にかけて、満州西北部のノモンハンで外モンゴル人民共和国との国境、その 頃は外蒙と言っていましたが、その国境争いをめぐって、日本陸軍がソ連軍に完膚なきまでに叩きのめされた戦いです。しかも、これほど悲惨で、出鱈目な戦い も、そうはなかったでしょう.....(続きはこちら

第29回 第二次世界大戦と日本

 二十一世紀を前にして、「失われた十年」ということが盛んに云われました。日本は、二十世紀最後の十年をバブル経済の破綻処理に追われ、改革が不十分なまま新しい世紀を迎えてしまった。こう云うのですが、昭和六年の満州事変から十六年の太平洋戦争開戦までが、ちょうど十年でした。まさに「破滅的戦争に走り出した十年」だったわけですが、それじゃ防ぐチャンスがなかったのかと云うと、いくらでもありました.....(続きはこちら

第30回 日独伊三国同盟と第二次近衛内閣

 日本が太平洋戦争に突入する運命は、一年四か月以上も前、昭和十五年七月二十二日に成立した第二次近衛文麿内閣によって決まってしまった。こう言っても、いいでのではないでしょうか。まず第一に、二か月後の九月二十七日、日独伊三国同盟を締結したことです。この軍事同盟によって、日本は現にヨーロッパで戦争しているドイツ、イタリアと結び、アメリカ、イギリスに敵対する態度をはっきりさせてしまいました.....(続きはこちら

第31回 日ソ中立条約と日米交渉始まる

 六十年前の敗戦の日、私は中学三年生でしたが、勤労動員先の軍需工場で玉音放送を聞いて、正直云って全てが真っ白になったような気持ちでした。二、三日してからだったでしょうか、近くの銭湯へ出掛けて行って、煌々と電灯の明かりがついているのを見て、初めて「あ〜戦争は終わったんだ」と実感したものです。そのとき脱衣場でも洗い場でも、大人たちが口々に「ソ連が裏切ったから負けたんだ。この悔しさは孫子の代まで語り継がねは」、「そうだ、そうだ」とみんなで云い合っていた....(続きはこちら

第32回 独ソ戦勃発と南部仏印進駐

 日本が太平洋戦争に突入する運命を決定づけたのは、昭和十五年九月、第二次近衛文麿内閣の時でした。何といっても大きかったのが日独伊三国同盟を締結して、ヨーロッパで戦争をしているドイツ、イタリアと結び、アメリカ、イギリスと敵対する態度をはっきりさせてしまったことです....(続きはこちら

第33回 開戦か和平か 東条英機内閣発足へ

 東条英機内閣と言うと、一般的には「軍部独裁の下、ひたすら太平洋戦争に突き進んだ内閣だ」--こう、思われているようです。確かに東条内閣は、成立が昭和十六年の十月十八日、それから五十一日後には「開戦内閣」となるのですが、それじゃ全力を振るって日米戦争に突入したのかというと、決してそうではないのです....(続きはこちら

第34回 日米開戦へ ハル・ノート

 太平洋戦争は昭和十六年十二月八日、日本海軍機動部隊のハワイ真珠湾攻撃で幕をあけましたが、その二日前の六日深夜、首相の東条英機が首相官邸の日本間に正座し、声をあげて泣いている姿を妻と二人の娘さんに目撃されています。東条は組閣にあたって「白紙還元の御諚」、つまり「外交交渉により日本の要求を貫徹出来る目途がない場合は、直ちに開戦を決意する」、この九月六日の御前会議決定を一旦白紙に戻し....(続きはこちら