第1回 明治の外交

 私が新聞記者をしていたころ、作家の司馬遼太郎さんを講演にお招きして、その後何度かご一緒にお酒を飲む機会がありました。司馬さんは大変な座談の名手で、いつまで話していても飽きないといった楽しいお酒でしたが、その時印象に残っている話があります。司馬さんご自身、本に書いていらっしゃるのでお読みになった方も多いと思いますが.....(続きはこちら

第2回 日露戦争と情報

 日露戦争と太平洋戦争では、一体何が違ったのか。私は一つは、情報を大切にしたかどうかの違いが、大きかったと思います。明治の元老たちは、明治三十五年一月、日英同盟を結んだ時でも、伊藤博文にしろ井上馨にしろ、小うるさいくらいに、いろいろと注文をつけています。外務大臣の小村寿太郎は「本来外交というものは.....(続きはこちら

第3回 日露戦争の軍人たち

 きょうは日露戦争の二人の軍人。一人は旅順口の閉塞作戦で戦死して、軍神とうたわれた海軍の広瀬武夫中佐、もう一人はこの習志野の騎兵旅団を率いて、世界最強のロシアのコサック騎兵を破った秋山好古陸軍少将。この二人を中心に、当時の軍人がどんな軍人だったのか、またどんな物の考え方をしていたのか、昭和の時代と比べながら.....(続きはこちら

第4回 日本海海戦

 日露戦争と云えは、ここにいらっしゃる皆さんはすぐ 「陸の乃木希典、海の束郷平八郎」 を思い出されると思います。ところが今の若い人は、乃木神社、東郷神社は知っていても、乃木さんも知らなければ、束郷さんも知らない人が多いようです。八年ほど前でしたか、ある雑誌に載った当時の国連事務総長ガリさんの写真を見て、びっくりしたことがあります.....(続きはこちら

第5回 旅順と乃木希典

 きょうお話しする旅順は、日露戦争で日本が一番苦戦をした戦場です。延べ十三万の将兵が、攻め落とすのに半年もかかり、半分近い五万九千三百人の死傷者を出しました。日露戦争の陸軍の戦死者は全部で六万人ですが、そのうち四分の一の一万五千人がこの旅順で死んでいるのです。第三軍司令官として旅順攻略の指揮をとったのが、長州出身の陸軍大将乃木希典です.....(続きはこちら

第6回 日露戦争とその時代

 百年ほど前の日露戦争の時代とは、いったいどんな時代だったのでしょうか。平成も二十年になりますと、明治がますます遠くなった感じが致しますが、一口で言えば、武士道精神の色濃く残った時代だったと思うのです。旅順を攻略した第三軍司令官乃木希典大将は、ステッセル将軍と水師営で会見したとき、降伏の印であるサーベルを取り上げず.....(続きはこちら

第7回 明治の言論

 明治三十年代、日露戦争をはさんだ十年ほどは、この前にもこの後にもない、言論の大らかな時代でした。与謝野晶子が「君死にたまふこと勿れ」と歌い、新聞や議会が「軍の作戦がおかしいから、こんなことになったんだ」と、軍の作戦ミスを非難、攻撃したのです。太平洋戦争の頃を少しでも知っていらっしゃる方なら、とても想像できないことだと思いますが.....(続きはこちら

第8回 ポーツマス講和会議と小村寿太郎

 日露戦争と太平洋戦争では、いったい何が違っていたのか――私は、一番大きかったのは、リーダーたちの現実認識だったと思うのです。日露戦争のリーダーは、元老や政府首脳はもとより、陸海軍の首脳部にしても、世界の中の日本の弱い立場、日本の国力の実情をよく知っていました。そしてそれを補うため、情報を大切にし、見事なくらいに適所に適材を.....(続きはこちら

第9回 明治の元老政治

 きょうは「明治の元老政治」というテーマで、明治国家がどのようにして作られ、またどう発展していったのか。元老中の元老である伊藤博文と山県有朋を中心に、話してみたいと思います。昭和十五年の十一月、最後の元老と云われた西園寺公望が亡くなりました。九十一歳の高齢でした。国葬が行なわれましたし、ちょうど私の祖父が七十五歳で死んだばかりだったので.....(続きはこちら