第11回 軍部の台頭と西園寺公望内閣

 日本の昭和の歴史は、出先の軍隊が勝手に火を点けて、軍部の暴走のままに満州事変から支那事変、太平洋戦争へと、戦争に引きずられていった歴史でした。誰かがどこかで止められなかったのか、大変残念な気が致しますが、軍部はオールマイティとも云うべき強大な権力を握っていました。その一つが「統帥権」といって、軍隊を動かすこと、軍隊の指揮命令権のことです。軍隊をどう動かすか、計画を立てて進めるのは参謀本部です。ただ参謀本部そのものには指揮命令権はないのですが、軍隊に対する命令は「奉勅命令」、天皇の命令の形で出されますから、軍部がひとたび決めると、これは憲法のワクを超えた天皇の大権だとして、総理大臣といえども口出し出来ないのです。政治が軍事を支配せず、日本が軍事優先国家になった原因でした。もう一つが、陸海軍大臣は現役の大将、中将に限ると云う「陸海軍大臣現役武官制」です。この規定を盾にとって、軍部の気に入らない内閣には大臣を送らない。陸海軍大臣がいなくては内閣を作れませんから、軍部はいつでも内閣を倒す武器を手にしていたわけです。この二つがどんな経緯で生まれたかは、前に「明治の元老政治」でお話ししましたが、きょうはその権力を握った軍部がどんな形で姿を現わしてきたのか、「軍部の台頭」というテーマで話してみたいと思います。

 

 実は軍部という言葉は、日露戦争までの日本にはありませんでした。今でも政界、財界、官界、あるいは言論界とか芸能界とか云っているように、それまでは軍人社会一般を指して「軍界」と云っていたのです。軍界は、軍人と云う専門の職業分野を示す言葉ではあっても、特定の政治的性格を持つ言葉ではありません。ところがこれが軍部となると、例えば司法権の独立、優越を示す「司法部」という言葉があるように、そこには軍事組織の強い意志が感じられます。事実、陸軍はその思いをこめて、この軍部と云う言葉を使い出したのです。

 

 最初の対象は社会主義運動に対してでした。明治三十九年四月、日露戦争の勝利を祝う凱旋観兵式が青山練兵場で行なわた時です。陸軍大臣の寺内正毅は、その後の師団長会議で社会主義を病毒と決め付け、「いささかなりとも、軍部に侵入するを許さず」と訓示しています。これが軍部という言葉が公式の場で使われた最初だと云われますが、陸軍は軍隊が社会主義思想に感染するのを恐れ、社会主義を敵として撲滅する意志を明らかにしたのです。軍界の方は大正三年の教育総監訓示で使われたのを最後に、完全に死語になっていきました。そして軍事機横がだんだん大きな顔をするするようになったてきのが、軍界に代わってこの軍部と云う言葉が登場してきた時期なのです。

 

 日本で社会主義運動が盛んになったのは、明治三十年ごろからです。近代化が進み工業が発達するのに伴って、当然のことながら様々な社会問題が発生してきました。この「明治の光」の影の部分にいち早く注目し、ヒューマニズムの観点からこの間題を取り上げたのがキリスト教信者たちです。「社会主義の長老」と云われた安部磯雄、同志社や早稲田の教授を務めへ学生野球に力を入れて安部球場にその名前を残している安部もクリスチャンでした。明治天皇暗殺を企てたとして大逆事件で死刑になった幸徳秋水を除けば'キリスト教徒が多いのです。安部や幸徳は明治三十四年五月に社会民主党を結成しましたが、党の綱領に軍備縮小、普通選挙の実施、治安警察法の廃止などを掲げたものですから、即日結社禁止になっています。ただこうした主張は、青年層、ことに学生たちに大きな影響を与え、信奉者を増やしていったのです。陸軍は彼らが軍隊に入って活動するのを警戒しました。日露戦争の傷病兵も続々と内地に送り返されてきます。激しい戦闘で傷ついた兵隊たちが戦争そのものに疑問を持ち、社会主義思想と共に、兵役拒否、厭戦気分が軍隊に広がるのを心配したのです。

 

 中でも神経を尖らせたのが、明治三十六年十一月に幸徳や堺枯川らが作った平民社の動きです。彼らは週刊の「平民新聞」を発行し、戦争が始まってからも相次ぐ発売禁止、逮捕、投獄にもめげず、戦争反対を訴え続けていました。十六歳で参加した荒畑寒村の話だと、「伝道行商」と称して、宣伝と云わないで道を伝える行商と云うあたり、これもキリスト教の影響でしょうが、赤い箱車に社会主義の本や宣伝パンフを積み込み、脚粋にわらじ履き姿で全国を回ったと云います。本が売れた日は一泊二食二十五銭の商人宿、売れない時は素泊まり五銭の木賃宿に泊まるんだそうです。瞬く間に社会主義の地方組織が三十か所も出来たものですから、荒畑たちには警察の尾行がぴったりつきました。そして陸軍は「兵営に一切近付けるな」、「華人軍属と交際させるな」と、次官通達まで出して全国の部隊に警告したのです。

 

 ロシアの「血の日曜日」事件も、衝撃波のように日本に伝わりました。戦争中の三十八年一月二十二日、労働者十万人の「パンを与えよ、戦争を止めろ、憲法を作れ」。こう云った請願デモがニコライ二世の王宮に向かって行進を始め、止めようとしたコサック騎兵の発砲で死傷者二千と、首都ペテルブルクの広場を血で真っ赤に染めた事件です。ロシアに革命が起これば、戦争終結も近い。普通ならそう思って歓迎して当然なのですが、日本での受けとめ方は違いました。東京朝日新聞は「突如、ロシアの都に革命の燦火、のろしのことですが、革命の蜂火揚る」と速報しています。しかし、この労働者のデモを日本の新聞がどう見たのかと云うと、「極東の戦局をも顧みない不忠者」、つまり「戦争の最中なのに、皇帝に歯向かう不達の輩だ」と見ているのです。

 

 新聞の心配は、革命の火が日本の皇室に及ぶことであり、天皇批判につながることでした。その点は軍部も全く同じなのです。ヨーロッパでは、ロシア公使館付武官だった明石元二郎陸軍大佐が百万円、現在の金にすると八十億円とも百億円とも云われていますが、こんな莫大な金を使ってロシアに革命を起こそうと奔走している時でした。何とも矛盾するのですが、陸軍は矢つぎぼやに大臣訓示、次官通達を出して、国内の体制引き締めを図っています。社会主義者の扇動で日本の労働者が同じようなことをしたら、大変なことになると思ったのです。日清戦争で日本のものになった旅順'大連を、ロシアなどの三国干渉で靖国に返して以来、陸軍はロシアとの戦いに備えて九つだった師団を十三に増やし、海軍は戦艦六隻、一等巡洋艦六隻のいわゆる「六六艦隊」を作りしました。これを賄ったのは増税ですが、国民も「臥薪嘗胆」を合い言葉に歯を食い縛って耐えていました。しかし労働者には、低賃金で苛酷な仕事が押しっけちれることになったのです。ですから戦前から労働争議はありましたし、戦争が始まってからも、小石川の砲兵工廠や石炭仲仕の賃上げストなどが起きています。戦争中の日本の悩みは、常に砲弾の不足でした。砲兵工廠や海軍工廠だけでは生産が追い付かず、民間工場まで総動員していましたから、労働者のストには神経質になっていたのです。陸軍は自らリーダーシップを取り、内務省のシリを叩く形で社会主義の取り締まりを強化させました。

 

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「軍部の台頭と西園寺公望内閣」講演録全文
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