第14回 第一次世界大戦と日本

 きょうは、大正三年から四年間、ヨーロッパを戦乱の渦に巻き込んだ第一次世界大戦で、日本はイギリスとの同盟、日英同盟を大義名分にしてドイツとの戦争に入りましたが、これがその後の日本にどんな影響を与えたのか。時の首相大隈重信を中心に話してみたいと思います。

 

 大隈は肥前佐賀藩の出身ですが、長州閥の総帥で、陸軍の大御所と云われた山県有朋と全く同じ天保九年に生まれ、大正十一年の新年早々、共に八十三歳で亡くなっています。早稲田大学を創立し、政党政治を訴え続けてきた大隈の葬儀は「民衆政治家」の評判にふさわしく、大勢の会葬者で賑わいました。当時の読売新聞を見ますと、見出しが「法被、前垂れ、丸髷と参拝者数十万人」。ちょっとオーバーな感じもしますが、そこらの小父さん、小母さんから、職人さんもいれば、店員さんもいる。いろんな階層の人が大勢集まったということでしょう。それに引き替え、一か月後に同じ日比谷公園で行なわれた山県の国葬は、欠席者が多く淋しかったそうです。新聞はうまいことを書くものですが、「大隈侯は国民葬、国民みんなで悲しんだが、きのうは民抜きの国葬でガランドウ」。長年権力を握り続けた藩閥政治家山県の死を、大隈と比べてこう書きました。確かに大隈という人は総理大臣を二度もやっていながら、長州・薩摩の藩閥政治の外にいたせいか、いつも「民衆の味方」といった国民的な人気がついて回った人でした。

 

 私が早稲田に入ったのは昭和二十四年ですが、教授の中には大隈の演説をじかに聞いた人も多く、授業の合間にによくその話が出ました。「山県の耳、大隈の口」。こう云われたくらい、山県は人の話をよく聞き、情報を集めることにも敏感な人でした。対する大隈は、喋り出したら止まらない。「あるんであーる」、演説で得意な時には、語尾をこう伸ばすのがクセで、ひどい時には「あるんで、あるんであーる」と、二度も繰り返したと云います。いわゆる門戸開放で千客万来、誰とも分け隔てなく話し談論風発。「世界の道は早稲田に通ず」と豪語していたそうですが、ちょっと憂欝な気分で訪ねた人でも三十分も経って帰る時には、何か晴れ晴れした、いい気分になったと云います。この辺が山県の陰湿な感じと違って、親しみやすい民衆政治家としての人気を高めたようです。

 

 しかし大隈が再び首相になったのは、明治三十一年以来十六年ぶり、七十六歳の高齢でした。「駿馬も老いては駑馬」と云います。その人気の高さと実際の政治手腕、リーダーシップとの間には大きな開きがあったのではないでしょうか。私はその後の日本の歴史を考える時、この第二次大隈内閣の時が日本の分水嶺だったように思うのです。と云いますのは、日本は拙劣なまでにドイツとの戦争を急ぎ、中国山東半島のドイツの租借地青島を占領しました。それが中国に対する日本の野心の表れだとしてイギリスやアメリカの疑惑を招き、日本外交の柱だった日英同盟の廃止にもつながっていきます。中国にいわゆる「二十一か条要求」を突き付けたのも、この大隈内閣です。「二十一か条要求」については後で詳しくお話しますが、それまで中国侵略者はイギリスでありロシアであり、ドイツ、フランスだったのに、代わって日本だけが非難の矢面に立たされることになりました。まさに中国民衆の反日・抗日連動に火をつけることになったのです。日本が国際的な孤児となり、満州事変から支那事変、太平洋戦争へとつながる戦争のレールは、この大隈内閣の時に敷かれたと云っても過言ではないでしょう。

 

 それでは大正三年四月に成立した第二次大隈内閣は、いったいどんな背景から生まれたのでしょうか。それまでの薩摩出身、海軍大将の山本権兵衛内閣は、歴代内閣最大の課題である行財政整理を断行し、陸軍や長州閥の反発をよそに着々と成果を挙げていました。ところがシーメンス事件という、山本のお膝元・海軍での軍艦建造をめぐる汚職事件が暴露され、総辞職に追い込まれたのです。貴族院で海軍の予算が削られ、大正三年度予算が不成立となったためでした。元老会議の後継首相選考は難航しました。その頃の日本の政治を動かしていたのは、日露戦争で日本が勝利し富国強兵の時代ですから、陸軍と海軍、陸軍には長州、海軍には薩摩という強大な派閥が結びついているわけですが、それに衆議院第一党の政友会、そして官僚勢力の代表である貴族院です。この四大勢力が大正に入ってがら相次ぐ政変で手傷を負い、いわば四すくみの状態になって、うっかり前に出ていけなくなっていたのです。

 

 まず大正元年十二月に倒れた政友会の西園寺公望内閣ですが、その原因は陸軍が二個師団、約五万人の兵力増強を強硬に要求したことでした。ロシアの復讐戦に備えるためどうしても必要だと云うのですが、日本は日露戦争で外国から莫大な借金をしています。「財政上とても無理だ」とはねつけると、陸軍大臣が辞職してしまったのです。陸軍の要求を入れない内閣には、後任の大臣を送らない。陸軍大臣がいなくては内閣を作れません。陸海軍大臣現役武官制、つまり「陸海軍大臣は現役の大将、中将に限る」と云う規定を盾にとって、陸軍が内閣を倒した最初の例になりました。代わった長州と陸軍の桂太郎内閣も、「憲政擁護・閥族打破」、憲法に基づいた政治を守れ、薩長の藩閥政治を打ち破れと云う、国民の大合唱の前に五十日余りで崩壊しました。こちらは政党、民衆の力が内閣を倒したわけですが、これが「大正政変」と云われるものです。そして今度は、政友会と組んだ薩摩と海軍の山本内閣が、貴族院によって倒されたのです。

 

 一度は、山県直系の貴族院議員清浦杢吾の内閣が出来かかりました。しかし海軍は、山本内閣を倒した貴族院中心の新内閣構想に反発しました。シーメンス事件で世論の袋叩きにあった海軍ですが、その年の軍艦建造費だけでも認めて貰わないと、大勢の熟練工をクビにしなければなりません。一旦やめさせてしまえば今後の軍艦建造に支障を来すと、海軍は臨時議会を開いて承認してもらうよう清浦に要求したのです。貴族院をバックにしている清浦には、衆議院で圧倒的多数の政友会を敵にして、その予算を通す自信がありません。世論もまた、時事新報が「政党に基礎を置かない内閣は、大正三年の街頭にちょん髷、刀を持った者が躍り出たようなものだ」。こんな論評を書いているように冷ややかでした。清浦が新聞記者に話した「まあ鰻屋の前を通っているようなものだ。匂いだけはするが、なかなかお膳立てが出来ない」。これが新聞記事になって、鰻の匂いだけ嗅いで食べ損ねた内閣、「鰻香内閣」という有り難くない名前を日本の政治史に残して流産しました。大隈内閣は、いわばこうした政治の真空状態の中で生まれたのです。

 

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