第23回 昭和の言論

 きょうは「昭和の言論」というテーマで、昭和六年九月の満州事変から十一年二月の二・二六事件に至るまでの四年半近く、ある意味では支那事変から太平洋戦争へと、日本の進路を戦争の方向へ決定づけることになった、この時期の日本の言論について話してみたいと思います。

 

 満州事変からの日本は、それこそ一、二年の間に大きくなだれを打って、右側に移動してしまった時代でした。昭和の大恐慌で空前の不景気です。都会には失業者が溢れ、農村は米価暴落に喘いでいました。国中が八方塞がりで全く先が見えず、暗澹とした気分になっているところへ、この満州事変の関東軍の赫々たる戦果です。国民には青天の霹靂のようなはけ口となり、目の前に満蒙の新天地が開けたことで、パッと一筋の光が射したように見えたのです。

 

 戦争は、軍縮で社会の底辺に沈んでいた軍人たちを、日の当たる場所に押し出しました。軍部の発言力を強くしましたし、右翼や国家主義者を勢いづかせました。上海事変に続いて満州国の建国が強行され、これに反対した犬養毅首相は五・一五事件で暗殺されました。そしてその満州国が国際連盟から否定されると、日本は連盟を脱退して世界から孤立する道を選びます。異常なほど、軍国熱、排外熱が高まりを見せ、軍国化、ファッショ化が進められた時でした。それだけに日本の言論機関にとっては、まさにこの時が正念場だったのです。

 

 朝日新聞の主筆として朝日の社論をリードした緒方竹虎、戦後自由党の総裁になった緒方は、当時を振り返ってこう云っています。「日本の大新聞が、満州事変直後からでも、筆を揃えて軍部の無軌道を戒め、その横暴と戦っていたら、太平洋戦争はあるいは防げたのではないか」。緒方は「新聞が共同戦線を張って、言論の自由を死守すべきだった。言論の自由は、各新聞の共同戦線なしには守れるものではない。筆を揃えなかったばかりに、徒に軍ファッショに、言論統制を思わせる誘導を与えてしまった」と、痛切な反省をしています。

 

 ところが新聞は、軍部の横暴に共同戦線を張るどころか、軍部が進めてきた満州事変、満州国の独立支持に、筆を揃えてしまったのです。国際連盟でリットン調査団の満州報告書が審議されている時、昭和七年十二月十九日ですが、全国百三十二の新聞・通庸社は、「満州国の独立とその健全な発達は、満州を安定させる唯一最善の道である」という共同宣言を発表しました。そして「満州国の厳然たる存立を危うくするような解決案は、断じて受諾すべきではない」と、いわば「連盟脱退も辞さず」の強硬態度を、日本の言論機関の名前で声明したのです。

 

 新聞社の共同宣言は、それまで三回出ています。初めて普通選挙が実施された昭和三年一月、東京、大阪の代表的な新聞・通信社二十一社が一斉に社告を出して、国民に公正な選挙を訴えたのを皮切りに、いずれも議会政治、言論の自由を守る立場から出されたものでした。しかし今度は違います。満鉄爆破という、関東軍の謀略で始まった満州事変に対して、新聞は「中国軍隊の犯行だ」という陸軍当局の発表を鵜呑みにして、「日本が日露条約で保障された満州の権益を守る、自衛のための正当防衛であり、正義の戦いだ」とお墨付きを与えてしまったのです。もしこの時、新聞が正確に事実をつかんで報道していたら、その後の歴史の流れは随分変わっていたのではないでしょうか。ところが新聞には、連日「燦として輝くわが軍の威容」とか、「正義の前に支那軍殆ど壊滅」、あるいは「悪鬼の如き支那暴兵」。こんな関東軍を讃え、中国軍をバカにした大見出しが躍ったのです。国民が圧倒的に軍部を支持したのも、無理はありません。その頃の文芸春秋に「満州事変をどう思うか」という、読者アンケートの結果が載っていますが、「暴戻なる中国軍を断乎として叩くべし」。こんな声で埋まっています。

 

 この満州事変の謀略計画を立てて実行したのは、関東軍作戦参謀の石原莞爾中佐です。石原は満鉄爆破を口実にして、満州の武力占領に持って行くには、どうしても国民世論の応援が必要だと考えていました。まさに新聞とラジオがその旗振り役を務め、国民に嘘の発表を信じ込ませてしまったのですから、石原の狙い通りに進んだわけです。新聞の罪は大変大きいのですが、ただ新聞のために一言弁明すれば、当時は陸軍の高級軍人でさえほとんどみんな「中国軍隊の犯行」と信じ切っていました。身内までだましたほど、石原の謀略計画は徹底していたのです。しかし「まず疑ってかかる」というのは新聞記者の鉄則です。まして、情報の最先端にいるのは新聞記者なのです。ちょっと冷静に外国に目を向ければ、中国の新聞は早くから「関東軍の犯行」と書いていましたし、欧米の新聞も疑問を投げかけていました。新聞はなぜ簡単に軍部の嘘を信じてしまったのでしょうか。

 

 毎日新聞では敗戦後の昭和二十年十月、社内に終戦処理委員会というものを作って、こうした新聞の誤りがどうして導かれたのか、検討を加えています。その中で、まず第一に挙げているのが、「革命中国の実情を余りにも知らな過ぎたこと」。新聞記者の中国認識が無知無理解だったと云うのです。その頃のマスコミ論調に出てくる中国は、革命で清国が倒れた後、各地に地方軍閥が割拠して混乱に明け暮れし、自分の力では国を統一することも出来ない中国です。日露戦争に勝って「東亜の盟主」になったという慢心が、中国をチャンコロ、チャンコロと、一段下に見下すようになっていました。しかも日本人にとって満州は「日清、日露戦争で多大な血を流し、莫大な国費を費やして、ようやく得た特殊権益だ」。こう云う特別な思い入れがあります。どうして中国で反日、排日運動が起こるのか。どうして日本人に対するテロ行為が起こるのか。その本当の原因には目をつぶってしまい、中国民衆のナショナリズムの高まりも、「悪いのは中国だ」と一方的に思い込んでいたのです。

 

 こうした軍部支持一色の言論界の中で、唯一と云ってもいい例外が、経済雑誌「東洋経済新報」の主幹石橋湛山です。石橋は皆さんもご存じのように、昭和三十一年の保守合同後、初の自民党総裁選挙で岸信介を破って首相になった人です。しかし病気で体が激務に堪えられないと知ると、地位にこだわらずに二か月で辞任、情念と気骨にあふれた経済ジャーナリスト出身の政治家です。

 

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