第28回 ノモンハン事件

 これからお話するノモンハン事件は、ちょうど七十年前、昭和十四年五月から 八月にかけて、満州西北部のノモンハンで外モンゴル人民共和国との国境、その 頃は外蒙と言っていましたが、その国境争いをめぐって、日本陸軍がソ連軍に完膚なきまでに叩きのめされた戦いです。しかも、これほど悲惨で、出鱈目な戦い も、そうはなかったでしょう。

 第一、いったい何人死んだのか、それさえ諸説あってはっきりしないのです。 ノモンハンで戦った第六軍軍医部調査の数字が、防衛研修所戦史室に残っていま すが、それによると動員兵力六万のうち戦死及び生死不明八千七百四十一、戦傷八千六百六十四、戦病二千三百六十三、計一万九千七百六十八人。損耗率は三三%です。三〇%を越せばその軍隊は戦闘能力を失った、五〇%で壊滅的打撃と見倣されるのだそうですが、主力となって戦った第二十三師団に至っては、出動人員一万五千九百七十五人に対して一万二千二百三十人。損耗率実に七六%。十 人のうち七人以上が死傷しているのです。世界戦史にも類を見ない、日本陸軍始 まって以来の大敗でした。

 何でこんなに負けたのか。一言で言えば、ソ連軍の圧倒的な火力と、戦車、 装甲車を中心とした機動力の違いでした。重砲と言って、大きな大砲でどかどか撃たれる。こっちが一発撃つと、たちまち一分間に百二十発も撃ち返され、兵隊 たちは味方の砲兵に、「なるべく撃たないでくれ」と頼むようになったそうです。 昭和十一年のベルリン・オリンピックで水泳の四百㍍自由形に入賞した根上博さ んは、立教大学を出て主計少尉として従軍しましたが、こう話しています。「と にかく前にも後ろにも、戦車が十㍍か二十㍍のところをガーガー走り回る。こっ ちは肉弾攻撃しかない。アンパンと言って、携帯地雷を抱えて飛び込んで行く。 サイダー瓶にガソリンを詰めて投げ付ける。思う存分蹂躙されたところを重砲で叩かれ、負けたとしか言い様のないほど悲惨な光景でした」。戦車が横一線にな って、砲塔から火炎放射器を噴射しながらやって来るんだそうです。日本軍の陣地に重油を撒き、その上から火をかぶせる。戦車に踏み潰されなかった者は、火炎放射器で焼かれる。根上さんは、「機関銃弾も撃ち尽くして、戦術も何もあっ たものじゃなかった」と話しています。

 第一線部隊の連隊長クラスで、包囲されて戦死あるいは自決した者が十人、無 断撤退の責任を問われて自決させられた者が三人。第一線指揮官のこの異常とも言える犠牲の多さが、戦闘がいかに職烈であったかを物語っています。戦車という近代兵器、それも物量で押してくる敵に対して、一番活躍したのが原始的な火炎瓶だったと言うのですから、素手で戦ったも同然でした。これが装備の劣る中国軍を相手にして、「無敵皇軍」などと豪語していた日本陸軍の実態だったのです。

 しかも、一番問題なのは、このノモンハン事件が日本の国家的意志とは全く関係なく、現地関東軍参謀の独走によって行なわれたことです。陸軍の言うことをきかなければ何も出来ない、「陸軍あって国家なし」と言われていた時代ですが、その陸軍で統帥権、軍隊を動かす最高の権限を握っている参謀本部でさえ、関東軍の事件拡大の動きを知らなかったのです。下手をすればソ連との大戦争になるかも知れないというのに、軍事行動を広げた後で事後報告をする。関東軍の完全な独断専行でした。参謀たちは後で 「まさか、ソ連が、あのような大兵力をあの草原に展開出来るとは、夢にも思わなかった」。こんなことを言っていますが、「戦えば必ず勝つ」という自己過信から来る情勢判断の甘さ、敵を知らず己れを知らず、近代装備されたソ連軍の実力を侮っていました。そして兵隊には、武器弾薬もろくに与えずに、「必勝の信念」のみを要求したのです。

 ノモンハン事件については、「人間の条件」を書いた五味川純平さん、芥川賞作家の伊藤桂一さん、現代史の専門家半藤一利さん、つい最近では一橋大学名替教授の田中克彦さんなど、実に多くの人が書いています。今月からNHKで司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」がいよいよ始まるようですが、私はその司馬さんに書いて欲しかったなと思うのです。司馬さんは二十年ほど前、「この国のかたち」と題した文芸春秋の巻頭随筆に、「ついに書くことはないだろうと思うが、ノモンハン事変をここ十六、七年来しらべてきた。生き残りの人達にも、ずいぶん会ってきた」 と前置きして、こう書いています。

 「戦場で生き残って、そのあと免職になった一連隊長を信州の盆地の温泉町に訪ねたときは、まだ血が流れつづけている人間を見た思いがした。その話は、事実関係においては凄惨で、述懐においては怨嵯に満ちていた。うらみはすべて、参謀という魔法の杖のもちぬしにむけられていた。他者からみれば無限にちかい権能をもちつつ何の責任もとらされず、とりもしないというこの存在に対して、しばしば悪魔! とよんで絶句された」。免職になった連隊長とは、旭川の第七師団歩兵第二十六連隊を率いて、最も勇敢に戦いながら予備役にされ、戦後は上山田温泉で旅館を経営していた須見新一郎大佐です。司馬さんは続けています。「『元亀天正の装備』という形容を、この元大佐は使われた。当時の日本陸軍の装備についてである。いうまでもなく元亀天正とは、織田信長の活躍の時代のことである。この元大佐とその部下たちはその程度の装備をもってソ連の近代陸軍と対戦させられ、結果として敗れた。その責任は生き残った何人かの部隊長にかぶせられ、自殺させられた人もあった」。司馬さんは、さらに参謀について 「しかしこの悲惨な敗北のあと、企画者であり演出者であった『魔法使い』たちは転任させられただけだった。たとえば、ノモンハンの首謀者だった少佐参謀の辻政信は上海に転任し、その後、太平洋戦争では大きく起用されてシンガポール作戦の参謀になった。作戦終了後、その魔法の機能によって華僑の大虐殺をやり、世界史に対する日本の負い目をつくることになる」と書いています。

 司馬さんが、これほど調べていながら、なぜノモンハン事件を書かなかったのか。司馬さんは、こう言っています。「ちゃんとした統治能力をもった国なら、泥沼におちいった日中戦争の最中に、ソ連を相手にノモンハン事変をやるはずもないし、しかも事変のわずか二年後に同じ 『元亀天正の装備』 のままアメリカを相手に太平洋戦争をやるだろうか。信長ならやらないし、借長でなくても中小企業のオヤジさんでさえ、このような会社運営をやるはずもない」。本当にその通りでした。司馬さんは 「自分がその時に生存した昭和前期の国家が何であったかが、四十年考え続けてもよくわからない。よくわからぬままに、その国家の行為だったノモンハン事変が書けるはずもない」 と、こう言うのです。

 ノモンハン事件は、昭和の日本陸軍が初めて経験した本格的な近代戦でした。しかも戦闘組織としての欠陥を余すところなく暴露し、大敗したのですから、貴重な教訓になるはずだったのです。

 

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「ノモンハン事件」講演録全文
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「ノモンハン事件」配布資料(メモ)
第28回 ノモンハン事件002.pdf
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「ノモンハン事件」配布資料(年表)
第28回 ノモンハン事件003.pdf
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