第8回 ポーツマス講和会議と小村寿太郎

 日露戦争と太平洋戦争では、いったい何が違っていたのか――私は、一番大きかったのは、リーダーたちの現実認識だったと思うのです。日露戦争のリーダーは、元老や政府首脳はもとより、陸海軍の首脳部にしても、世界の中の日本の弱い立場、日本の国力の実情をよく知っていました。そしてそれを補うため、情報を大切にし、見事なくらいに適所に適材を当てました。それがロシアという超大国を相手にして、どうにか勝つことが出来た最大の要因だった、と言ってもいいでしょう。完壁な勝利と言えるのは日本海海戦くらいのもので、後は旅順にしても奉天の戦いにしても際どい勝利の連続、まさに九死に一生の戦いでした。中でも際どかったのが、これからお話しする日露講和会議の交渉です。一歩誤れば、それこそ、それまでの勝利は全て吹き飛んでしまうところだったのです。

 

 一年半にわたった日露戦争に決着をつける講和会議は、明治三十八年八月十日から始まりました。舞台はアメリカ東海岸、ニューハンプシャー州の小さな港町ポーツマスです。主役は、日本が外務大臣の小村寿太郎、ロシアは長年大蔵大臣を務めたウイッテでしたが、二人には大変重い足枷のついた交渉でした。日本は国力の限界が近付いていて、これ以上戦争を続ける力がありません。ロシアも革命の火の手が、あちこちにくすぶっていました。お互い何とか講和を纏めたい気持ちが同じなのですが、そこは外交交渉ですから弱みは見せられません。しかも小村にとっては、講和の結果が形の上で日本の判定勝ちになるように、つまり土地なり賠償金なりが少しでもいいからほしい。ところがウイッテには、「土地も金も一切ダメだ」というロシア皇帝の厳しい命令があったのです。

 

 二十日間にわたった交渉は何度か行き詰まり、決裂寸前にまで行きました。それが何とか纏まったのは、仲裁役であるアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの存在が大きかったのです。ルーズベルトはこの調停でノーベル平和賞を受けましたが、その粘り強い斡旋がなければ、講和会議は開くことさえ難しかったでしょう。そしてもう一つ、見落としてならないのは、三十六年後の日米開戦につながる対立の火種が、実はこの時からすでにくすぶり出していたことです。

 

 日露両国全権団の顔合わせは、ニューヨーク沖の大統領専用ヨット「メイフラワー号」で行われましたが、ルーズベルトは小村の手を握ると、「ここにいるのは同志だけですから」と言ったそうです。ロシア全権団が乗船してくる前に、わざわざ「貴方の味方ですよ」。こう声をかけたほど、ルーズベルトは親日的でしたし、影になり日向になって日本を助けてくれたのです。

 

 このルーズベルトの日本贔屓には、先月「明治の言論」でも話しましたように、新渡部稲造の書いた「武士道」という本が大きかったと言われます。新渡部は内村鑑三と一緒に札幌農学校で学んだクリスチャンですが、一高校長や東京女子大の学長を務めた教育者であり、国際連盟の事務局次長をした国際人でもあります。「日本の魂」というサブタイトルのついたこの本は、明治三十二年フィラデルフィアで英文で出版されましたが、武士道の根本は恥を知る、名誉を守る点にあると説いています。この本を読んで感動したルーズベルトは、六十冊も買い入れて陸軍士官学校に寄贈し、日本理解の教科書として使わせたそうですが、日清戦争に勝って世界に注目されるようになった日本を、広く欧米諸国に理解させるのに役立った本でした。その新渡部は、事あるごとに寛大さ、謙虚さ、心の触れ合いの大切さを説いています。「専門センスではいかんよ。カモンセンス、常識的でなくては」――これが口癖だったそうです。一高の校長になった時、学生たちに「ソシアリティ、社交的観念がなくてはダメだ」とも話しています。どんなに知識に優れ、徳があっても、それだけでは個としての人間しか出来ない。実社会に通用し、円満な活動の出来る人間にならなければ、価値はないと言うのです。

 

 実は、ポーツマスの小村を調べていて、この新渡部の言葉が痛いほど私の胸に迫ってくるのです。確かに小村は、明治の外交史では一際群を抜く存在でした。日露関係が緊迫した時、イギリスとロシアでどっちが国として借用出来るか、日本の安全にはどっちと組んだ方がいいのか。冷静な判断で日英同盟を結んだように、外交の感覚、見通しにも優れていました。日本の外交に「主義・原則の外交」を確立した人でもあります。維新の元勲でもなく、総理大臣も経験しないで、一代で侯爵にまで登りつめたのは小村だけです。日露戦争で武勲を立てた連合艦隊司令長官の東郷平八郎、海軍大臣の山本権兵衛、満州軍総参謀長の児玉源太郎、旅順を攻略した乃木希典と、いずれも伯爵どまりだったことを考えれば、小村の外交手腕がいかに高く評価されていたかが分かります。しかし、外交官としての専門センスには優れていても、カモンセンス、常識の点ではどうだったのでしょうか。ポーツマスでのウイッテが、本来の貴族趣味をかなぐり捨て、極めて明るく庶民的に振る舞ったのに対し、小村は脇目も振らず、冷徹なほど外交一筋でした。社交的観念を軽視する、むしろ無視したようにさえ思えるところが随所に見られました。それはアメリカが「世論の国」であることを考えると、やはり小村の大きなミスだったと思うのです。

 

 その点、常識でも社交的観念の点でも、抜群だったのが元老の伊藤博文です。しかも伊藤は、何か問題が起これば必ず動いた人です。ルーズベルトを講和の仲介役に引っ張り出したのも、伊藤の優れたリーダーシップでした。伊藤は何とか戦争を避けたいと「恐露病」、ロシアを恐がっていると言われながら、最後まで日露和解の道を探り続けました。しかし一たび御前会議で日露開戦が決まるとも、貴族院議員の金子堅太郎を呼んでアメリカ行きを命じています。現実主義者の伊藤は、大国ロシアといつまで戦っていたら日本に勝ち目はない。潮時を見て仲裁をしてくれる国が必要だが、それはアメリカを措いて外にない。アメリカ世論を味方につけ、金子とハーバード大学同窓であるルーズベルトに動いて貰おうと、開戦と同時に戦争終結への布石を打ったのです。伊藤はまた、娘婿の末松謙澄をイギリスへ派遣しています。末松はケンブリッジ大学で八年間も文学、法律を勉強したイギリス通ですが、この戦争は有色人種の日本にとっては、初めて経験する白色人種、それも強国との戦争です。仏教国とキリスト教国との戦争でもあり、宗教戦争になる危険性をはらんでいて、黄禍論の再燃となり全白人国やキリスト教国から敵視される恐れさえあったのです。金子と末松は「英米二国ノ国情ヲ査察シ、其ノ人民ノ同情ヲ喚起シテ以テ戦役ノ後援トスル」。こう指示されたように、黄禍論の再発を防ぐための言論戦、広報活動が任務でした。二人ともあらゆる機会をとらえて、騎士道に通ずる日本の武士道精神を説いて回りました。末松は日本のことを「旭日」、「日本の面影」の二冊の英文の本で紹介しましたし、金子もエール大学の教授に委嘱して日本のロシアに対する講和条件のシンポジウムを開いて貰うなど、英米の世論を親日的に導びくのに頁献したのです。この戦争の隠れた功績者だと言ってもいいでしょう。

 

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「ポーツマス講和会議と小村寿太郎」講演録全文
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「ポーツマス講和会議と小村寿太郎」配布資料(メモ)
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「ポーツマス講和会議と小村寿太郎」配布資料(年表)
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